ノンデュアリティかなもり幼稚園

バタ足ノンデュアリティ

\ Woohoo! /

〔 園長のおまけプロフィール① 〕

  〝おまけプロフィール〟ではない、ちゃんとしたプロフィールは、 こちら

【幼少期~20代のころ】

・小さいころ、小児ぜんそくだった。治すために、水泳を習わされた。また、同じぜんそく持ちのこどもが集まる軽井沢の施設に何度か行かされた。

・もともと引っ込み思案で、幼稚園のときから小学三年生ぐらいまでの写真は、端っこで誰かの陰になっているようなものばかりだった。

・小学生のころ、漫画家になりたいと思っていた。野球少年でもあった。

・中学生のころ、海外の推理小説に夢中になった。陸上部所属。中長距離。

・高校生のころ、バンド活動に夢中になった。ひょんなことから、私のファッションがいっとき学校内で流行った(これ、自慢話ではなくて、笑える話なんです)。

・10代終わりから20代半ば過ぎまで、ほんとに何も考えていなかった(湘南に住み、サーフィン三昧の生活をひたすら楽しんだ)

・ずーっと忘れていたことだが、中学生のとき、目の前にないものは「ない」、友だちや親でさえ「いない」と感じていた。でも、それがとても「冷たい考え」のように思えて誰にも言えなかったことを、ブログを書きはじめたときに思い出した。


【受賞歴】

・小学校4年生のとき、練馬区の写生コンクールにて、6位入選(^.^)

・何の大会だったか、おぼえていないのだが、習字でも、特別賞のようなものをもらった。やはり4年生のとき。


【好きな言葉】

「僕なんか、『一本芯なんか通しちゃダメよ、人間は』みたいな感じだからねー。うっふふふ。芯があるうちはまだまだ、みたいなね。あっはははは!」by 井上陽水さん(ラジオ番組でのトークより)


【尊敬する人】

 妻


【食べ物の嗜好】

・好物 妻のつくる絶品!トマトソースパスタ、絶品!肉なしキーマカレー、絶品!ベジギョーザ、それと、桔梗屋の信玄もち

・目玉焼きは、しょうゆ&マヨネーズ

・あんこは、つぶあん


【好きな場所】

 砂浜


【政治・宗教】

 いかなる政治思想、宗教思想にも属さない


【テレビ出演】

・ケーキ店オーナーシェフとして、「はなまるマーケット」「メレンゲの気持ち」などメジャーな番組に主演。(店や商品の紹介だけなら、テレビ紹介30番組以上、新聞・雑誌などの取材は、120誌くらいまでは記録していたが、それ以上はやめた。おそらく200ぐらいだと思う)

・サーファーとして、「とくダネ!」に出演。このときの撮影のようすが、この下のエッセイの二つめに書いてあります。


**************


【エッセイを四つお届け】


エッセイ1
人生二度目のモーニンググローリー


 少し前に「モーニンググローリー」を見ました。

 早朝、仕事に向かうマンションの廊下からでした。

 素晴らしかった。

「モーニンググローリー」、知ってます?

「あさがお」ではありませんよ。雲です。

 このときが、人生で二度目。

 一度目は、若いころ、サーフィン三昧の生活をするために、湘南の辻堂に移り住んでいたときのことでした。

 海まで自転車で三分のところにあった木造二階建て、下ふた部屋、上ふた部屋の、かなり〝きている〟アパート。

 私の部屋は、階段をあがって手前の部屋。

 玄関の扉がちゃんと閉まらず、かなりがんばらないと鍵がかけられなかったので、ふだんは鍵をかけずに出かけていました(今思えば、いい時代でしたね)。

 アルバイトを終えて夜帰ってくると、サーファー仲間が勝手にあがり込んで酒盛りをしていて、「おお、お帰りー」なんて、ふつーに。 私もふつーに、「おお」。

 そして、朝は、波さえあれば海へ。

 海からあがって、風呂に入って、朝めし。

 少し寝る。

 午後から中華屋さんや居酒屋でアルバイト。

 そんな生活。

 八月のはじめころ、その日もいつも通り朝四時半に起きました。

 目覚ましを止め、たてつけの悪いガラス窓に手を伸ばす。

 開けるのに少し力が必要だ。

 ガタッ、ガタッ、ガタガタ……。

 左手を外に突き出し、風の向きを確かめる。

 海に向かう前の日課。

 微風。

 体をひねって空模様をたしかめようとしたときでした。

 なんだあの雲は――。

 生まれてはじめて見ました。

 ものすごく太くて長いパイプが空に浮かんでいるような雲。

 なんていうか、それがゆっくりゆっくり転がっているように見えないでもない。

 おおおーっ!

 左に目を向けると、風上にもう一本。

 これまた、おおーっ!

 右側の風下に目を向けると、かたちがほぐれはじめて、広がりかけているようなやつが一本。

 なるほど、はかない命なのね……。

 まだインターネットなどない時代でした。

 はっきりとは思い出せないのですが、図書館か何かで雲の図鑑でも見て調べたのだと思います。

 それで「モーニンググローリー」という名だと知り、ちょっとした偶然に驚きました。

 その数日前に買ったばかりの山下達郎さんのアルバムのなかに「モーニンググローリー」という曲があったのです。

 名曲ですね。

 達郎さんは、「あさがお」(のような女性?)をイメージして書かれたのだろうと思いますが、私は勝手に「あの雲のことを歌っているのだ」などと決めつけ、ひとり納得して満足していたものでした。あれからどれだけの月日が流れただろうか。

 いつまでも定職につかずにサーフィンばかりでは、さすがにまずいだろうと、二十六歳になったころに、湘南から東京に戻ってまじめに(?)働き出してから、空を見上げることなんてなかったように思う。

 ましてや、三十代になって、一冊の「願望実現の本」に出会い、「俺にも成功するチャンスがあるのか!」なんて思い込んでからは、空があることさえ忘れていた。

 そのあいだにも、あの雲は、きっと何度かは出ていたんだろうなあ。

 気がつかなかっただけ。

 未来ばかり、そして、夢ばかりを見ていたから。

 私が願う未来は、空や雲になどなく、努力のなかにある、知恵のなかにある、情報のなかにある、人脈のなかにある、計画のなかにある。

 遊び仲間のなかになどない、家族のなかにもない、おいしいごはんのなかにもない、ゆったりとした時間のなかにもないのだと。

 そうして、ひたすら走りまわっていました。

 そんな私にストップをかけてくれたのは、がんばってもがんばっても満足のいかない苦しみでした。

 思うようにいかない苦しみと、たとえ少しうまくいっても、つぎのステージが出てきて、自分がそこにいないという苦しみがふつふつと湧きあがる。

 抜け出しようのない苦しみ。

 そして、ある日、糸がプツッと。

 すべてがどうでもよくなったとき、私の前に突然ぬぼーっと現れたノンデュアリティ。

 かつて、一度、私の方から近づいてみようとしたときのノンデュアリティは、えらく冷たい野郎でした。

 けんもほろろ。

 本を手に取ってみたはいいが、10ページほど読んだだけでギブアップ。

 何を言ってるのかもさっぱりわからんやつでした。

 でも、やつの方から近づいてきたときは、まるで別人。

 付き合ってみると、こんなに気を使わず、楽なやつはいない。

 空気みたいに軽い。

 こいつと仲良くなってから、私は、好きなことばかりやっています。

 サーフィンばかりしていたあのころよりもずっと。

「モーニンググローリー」の出現で、ふと、むかしを思い出しました。

 ああ、アパートから辻堂駅に向かう途中のあのサンドイッチ屋、もうないんだろうなあ。

 おそい時間に行くと、おばちゃん、おまけいっぱいくれたっけなあ。見るからにお金がないのがわかったからでしょう(笑)。

 でも、店のあと片づけを手伝ったりもしたからね。

 走って駅前のスーパーまで卵ときゅうりを買いに行ったりもしたしね。

 カツサンド、最高でした!

 おばちゃん、ありがとー!

 さてさて、サーフィンといえば、じつは、私、おやじサーファーとして、テレビに出たことがあるんですよ。

 ちらっとなんかじゃないですよ。

 バッチリ二日間の密着取材!

 おそらくみなさんもご存知のメジャーな番組です。

 めちゃめちゃ楽しい経験でした。

 こんどお話ししますね。


エッセイ2
サーファーとしてテレビに出たときのこと


 だいぶ前の話。

 ケーキ店をオープンさせて3年ほどのころでした。

 フジテレビの『とくダネ!』という番組のある特集でテレビに出ました。

 特集のタイトルは、「急増する復活おやじサーファーたち」。

 一度卒業したサーフィンを、ある程度年齢がいってから復活したおやじたちが世の中に増えている〝らしい〟という話題から組まれた企画のようでした。

 私を含め四人のおやじが取り上げられました。

 放送を見て驚いたのは、私がメインのような扱いだったこと。

 そもそも私が候補の一人にあがったのは、あるサーフショップのオーナーからの推薦でした。

 私はこの1年ほど前にサーフィンを復活させ、ちょくちょく顔を出していたサーフショップがありました。

 オーナーが私と同じ年代で、サーフィンをはじめたのもほぼ同じころということなどもあって、話が合ったのです。

 ショップの地下がビデオルームになっていて、ほかの常連メンバーなどともサーフィンの話などで盛り上がっていました。

 ビデオルームは、なじみにならないと入れてもらえない場所で、飲食店でいえば「個室」のような意味合いもあって、サーフィンをする芸能人などもちらほらと来たりしていました。

「ええーっ! 〇〇〇〇(当時かなり売れていたグループ)のボーカルと、〇〇〇〇(ビッグな女優!)が、付き合ってんの!?」

などという話があったり、私がビデオルームへ下りて行くと、オーナーが、

「今、階段あがって行った二人連れのキャップかぶってた女の人、〇〇〇〇だよ。気がついた?」

「マジ!」(これまたたいへん有名な女優さん!)

なんていうこともありました。

 このサーフショップに、ある日、『とくダネ!』の番組ディレクターから問い合わせがあったのだそうです。

「復活組おやじサーファー」を探しているのだが、いい人はいないか、と。

 番組の方から条件がいくつかあって、たとえば、ブランクは長いほどいい、最低でも10年以上ほしい(私は15年のブランクがありました)、実際に波に乗っているシーンを撮影するので、そのときに多少恰好のつく程度のサーフィンの技術があるとなおいい、仕事がハードな人の方がいい、仕事場での撮影ができるとなおいい、といったもので、それを聞いたとたんにオーナーの頭に私の顔が浮かび、「条件にピッタリの申し分のない人がいますよ!」となったわけです。

 そんなことで、撮影日が決まり、詳細を聞くと、なんと二日間の念の入った撮影でした。

 二日とも、丸一日かかるつもりでいてください、とのことでした。

 一日目は、店で仕事をするシーンをいくつか撮り、そのあと自宅に移動し、コーヒーを飲みながらサーフィン雑誌を読むシーンや、サーフボードの手入れをするシーンなどを収録しました。

 カメラが回っているというだけで、なんだかガチガチになります。

 ディレクターさんから「カメラは見ないようにしてくださいねー」と言われていたにも関わらずついカメラを見てしまったり。

「もうちょっと上を見ましょう」とか「遠くに視線を送る感じで」といった注文が入るものですから、さらに自然にできない。そんなこんなで、どうにか一日目が終了しました。

 二日目は、家を出るところからはじまり、海に到着するシーン、ウェットスーツに着替えるシーン、海に向かうシーン、そして、波に乗るシーンの撮影です。

 テレビというのは、撮影スタッフの人数が多く、海のシーンの撮影では、夏の終わりころだったので、浜辺には人も多く、大注目でした。

 そしてなんといっても、最後に撮ったシーンが、海から上がってきて、傾きかけた太陽を見ながら〝たそがれる〟というもの。

 ディレクターさんから、「今日一日めいっぱい波を楽しんだつもりで、たそがれちゃってください」なんて、二日間で一番むずかしい注文が入る。

 いやはや、これがなかなか。

 たそがれる……。

 私なりに考える。

 そして、立ち位置やカメラ位置が決まり、照明さんなども位置取りが決まり、ディレクターさんが、「それではテイクワン行きまーす、3、2……」、そして、指だけで、1、そして、無言で「はいどうぞ」と手を差し出す。

 1テイク目、ディレクターさんが途中でカメラさんにストップをかける。

 そして私に「海から上がってくるとき、髪の毛の水を払うか、かき上げるか、何か少し動きを入れてみましょうか。こう自然な感じで」と。

 私のかたさを感じたのでしょう。 

 でもね、自然にしようと思う時点で、もう自然じゃないんです。

 2テイク目。カメラがまわってすぐに、ディレクターさんが、「ごめんなさーい、今、後ろに人が入っちゃったんでもう一回お願いできますか。すみませーん」と私には笑顔でやさしく言うも、スタッフには怒りをあらわにする。

 あら、スタッフにはたいへん怖い人だったのね。

 こっちまで緊張するわな。

 3テイク、4テイクとディレクターさんがいまいち納得できないようで、ちょっと考えてから「髪が少し乾いてきちゃったんで、一回濡らしましょう」と。

 ADさんが濡らしてくれるのかと思いきや、そんなことはなく、自分で波打ち際までトボトボと歩いて、波に頭を突っ込む。

 俳優さんじゃないからね。

 で、結局、上がってくる途中に一度、髪をバサバサとやってから軽く海を振り返り、さらに歩いて、小石で目印にした場所に来たら、こんどは体ごとゆっくり振り返って、傾きかけた太陽の方に顔を向けるという流れでいくことになりました。

 こうして5テイクめでやっと、「はーい、グッドです。オッケーでーす!」となったわけです。

 しかし、オンエアを見て、不自然さ丸出しの演技に恥ずかしいばかりでした。

 仕方ありません。

 素人なんですからね。

 音声だけで収録した「あなたにとってサーフィンとは?」という質問への回答も恥ずかしさ満点。

 とにかく、まあ恥ずかしさの連発でした。

 そこそこ見れたのはサーフィンのシーンぐらいだったでしょうか。

 でも、撮影スタッフがぞろぞろいて、まわりから注目される感覚は、かなり楽しい経験でした。

 やじうまが集まってきて、「誰? 誰?」とか「何の撮影?」とか「有名人?」とか、ひそひそ言っているんです。

 芸能人にでもなったような、そんな気分にさせてくれた出来事でした。

 今はもうサーフィンはやっていません。

 それでも、何かでサーフィンの画像とか映像とかが一瞬でも目に入ると、そこにとどまっちゃいますね。

 時間が止まります。

 やっぱり好きなんだなあ、海が、サーフィンが、青い空が。

 そして、何より、砂浜が好きなんだなあ。

 以上、サーファーとしてテレビに出たときのお話でした。


エッセイ3
テラスでお茶を ~有名人になった気分で~


 前回『サーファーとしてテレビに出たときのこと』の中で、有名人にでもなったような気分を味わいましたというお話をしました。

 もう一つそんなお話を思い出しましたので、ご紹介します。

 有名人にでもなったような気分、第二弾!

 

 12月のある休みの日、何のあてもなく街をぶらぶらと散歩しました。

 むかしからたまに行くカフェのテラス席が空いていたので、ちょっと一息。

 どうということのないカフェなのですが、場所柄、俳優さんなどをよくお見かけします。

 そんなことから、ある有名な俳優さん(絶対にみなさんも知っている俳優さんです)と、たまたま何度か席が隣り合わせになり、軽いあいさつ程度の会話をさせていただけるようになったりもしましたよ。

 ミュージシャンの方とかも何度かお見かけしました。

 その日は、よく晴れていて、風もなく、テラスでもそれほど寒くありませんでした。

 でもダウンジャケットは着たまま。

 この日はお気に入りの鮮やかなブルーのダウン。

 ネックウォーマーは外しましたが、ダウンの立て襟に口元が少し隠れているような状態。

 顔の四分の一ほどが隠れている感じ。

 頭にはニットキャップ。

 かぶるときは、いつもやや深めにかぶります。

 通りに向かってお茶を飲んでいると、左の方から、ある俳優さんが歩いてきました。

 脇役でけっこう有名な俳優さんです。

 みなさんも名前は出てこなくても、顔を見たらご存知だと思います。

 やや前かがみ気味に、ちょっとむっとしたようにも見える険しい表情で歩いてきます。

 「話しかけるんじゃねーぞオーラ」を振りまいているような、そんな雰囲気。

 もともと神経質に見える人なので、きっと実際もそうなのだろうなどとぼんやり考えていました。

 すると、彼がテラスの真正面で急に立ち止まり、こちらの方をじっと見ます。

 そして、何を思ったのか、満面の笑み。

 私はさりげなくうしろを確認しました。

 私が陣取っていた席は、テラスの一番奥。席のすぐうしろはカフェの大きなガラス窓があり、その向こうにカウンター席が並んでいます。

 人はいましたが、彼に反応している人は誰もいませんでした。

 彼は、明らかに私に笑顔を向けています。

 そして、つぎの瞬間、彼が両手をぴったり横にくっつけ、深々とお辞儀をしたのです。

 あきらかに誰かとまちがえている。彼との距離は、マイクロバス1台分といったところだろうか。

 私は、とっさにどうしていいかわからず、石のように固まったまま彼を見返していました。

 頭をあげた彼は、私に笑顔を向けたまま歩き出すと、もう一度深く頭を下げ、立ち去ったのでした。

 テラス席はいっぱいでした。

 そこそこ知られた俳優さんです。それが私に深々と頭を……。

 当然、みんなの視線は私に。

 内心、どぎまぎする私。

 しかし平静を装います。

 向こうが勝手に勘違いをしただけなのだから、私がどぎまぎする必要などないではないか。

 ふう~、と一息つき、しばらく静かにお茶を飲んでいました。

 すると、そこに、私がいつも髪を切ってもらっている美容師の男性が、たまたま前を通ったのです。

 たしかに店は近くにある。

 こちらから声をかけるまでもなく、彼が気づき「あっ、どうも」と深々と頭を下げる。

 美容師さんが外でお客に会ってあいさつするなどということは、どうということのないふつうのこと。

 問題だったのは、彼がファッションセンスが非常によく、目が大きくて、顔がまあいいほう、もちろんスレンダー、でありながら、ジムで鍛えていたりもするので、見た目が非常によろしい。芸能人みたい。まあ、目立つわけです。

 その彼がたくさんの人がいる前で私に最敬礼。

 あの俳優さんにつづいて、です。

 私は、軽く右手をあげて返す。

 なじみの美容師さんにあいさつを返すごくふつうの態度だと思うのですが、もしかしたら、ちょっと偉そうに見えただろうかなどと余計なことを考えたりもしました。

 しかし、ほかにあいさつのしようなどないではないか。

 私よりだいぶ若い彼に対して、席から立ちあがって、こちらが頭をさげるのもまたおかしな話だろう。

 これでいいのだ。

 彼は先を急いでいたようで、前方を指さし、腕時計を右手の指で二度ほど軽くたたいてから、ニコニコ、ペコペコしながら、やや急ぎ足で去っていきました。

 さあ、こうなると、まわりがさらにたいへん。

 あいつはいったい何者なのか、という雰囲気が伝わってくる。

 感覚としては、映画監督とかプロデューサークラスといった感じだろうか。

 すると私の中にじんわりと、なんとも心地の良い〝偉くなった感〟のようなものが湧きあがってきたのです。

 地位を得るというのは、きっとこんな感じなのだろうなと。

 私はまわりの視線を感じながら、そのままその感覚をしばらく楽しみました。

 しかし、ふと思いました。

 もしあの俳優さんが戻ってきてまた前を通り、今度は私の近くまで来て、「あ、人違いでした、ごめんなさい」などとなったら、なんとも恰好がつかないではないか。

 このあたりは、劇場などがあり、俳優さんなどが行き来する場所でもあるのだ。

 彼はそこいらに少し遅めのお昼ごはんでも食べに行ったのかもしれない。

 そうしたら、またこの前を通る可能性はじゅうぶんにある。

 たいへんだ、のんびりなどしていられん。

 私は、残りのお茶を一気に流し込み、そそくさとカフェをあとにしたのでした。

 

 ダウンジャケットの襟に顔が少し隠れていたから、あんなまちがいが起きたのだろうと思う。ニットキャップも深くかぶっていたし。

 それにしても、あの俳優さん、私を誰とまちがえたのかなあ。

 おそらく彼は目が悪いのだろう。

 そういえば、彼はいつもメガネをかけていたような気がする。

 しかし、あのときはしていなかった……。


エッセイ4
40年ぶりの再会


 少し前に、ほぼ40年ぶりに会うことになる知人を訪ねた。

 たくさんの著名人をそのカメラにおさめてきた名の通った写真家だ。

 芸能界とのつながりも強い。

 CDジャケットなどもとてもたくさん手掛けている。

 もう25年以上も前からその活躍ぶりは知っていたが、なんだか連絡をためらっている間に、気がついたら長い年月が過ぎてしまっていたわけだ。

 私が二歳年下。中学・高校時代、よく家に遊びに行っていた。 

 先日、再会を果たしたのは、彼の自宅兼スタジオ。

 ふと思い出し、彼に連絡を取るためにウェブサイトを見に行った。

 そしてメールを書いた。

「いま自分はこれこれこんなことをやっています、あれこれ、あれこれ」。

 すぐに返事が来た。

「スタジオに遊びに来てよ、話したいね」と。

 一週間後、私はスタジオにおじゃました。

 最初は、正直、彼をなんと呼ぶか迷っていた。

 むかし呼んでいたように呼んでいいのだろうか。

 お互いおやじを超え、じじいの域にさしかかっている。

 当時呼んでいたように、お兄ちゃん、なんてね――。

 照れくさいというかなんというか。

 しばらくは、お互いどのようにして現在に至ったかを報告し合った。

 気がつくと私は、「でも、お兄ちゃんはさあ」などと自然にしゃべっていた。

 話したいことはいくらでもあった。聞きたいことも山のようにあった。

 写真家としてのエピソードをたくさん聞かせてくれた。

 なにしろ被写体がすごい人たちだ。

 よく知っている名前から、名前は知らなくても、その会社や団体名は誰でも知っているような組織のトップなどだったりするものだから、そりゃあ話がおもしろくないわけがない。

 やがて、話がすすむに連れ、お互い歳を重ね、人生というものに対する考えがむかしと大きく変わったことを笑い合った。

 話はつきない。

 これだけでもじゅうぶん楽しかった。

 けれども、彼のひとことから話は意外な方向に展開していった。

「ところで、本って、どんな内容なの?」

 おそらく興味を持たないであろう彼に、私はさしさわりのない言葉を並べ、ごくごく簡単に話した。この話を長くするつもりはなかった。

 ところが、彼が反応したのだ。

「俺さあ、じつは二十四のときに悟っちゃったんだよね」

 ぽつりぽつりと語る。

 彼は、24歳のときにある体験をしていたのだ。

 写真を撮るためだけにアメリカに三年間滞在していたときのことだった。

 アメリカに渡る前、ただひたすらシャッターを切りつづける中で、自分が何をしたいのか、どうすればいいのかがわからなくなっていたという。その迷いから逃れるようにアメリカに渡ったのだという。知る人のいない場所で写真だけと向き合う時間がほしかったと。

 あっというまに二年がたち、時間ばかりが過ぎていくなかで、ある日、ファインダーを覗いているときに、何かに頭を打たれたかのように衝撃が走ったという。

「自分が今、カメラのフレームから見えているこの四角のなかがすべてなのだ」と。

 これだけしかない――。

 自分は、四角のフレームに現れた〝それ〟だけを撮ればいいのだ、それしか存在しないのだから、と。

 そのときから、写真を撮ることがとても楽になったという。

「そのときの写真があれなんだよ」と、彼は壁に飾られた小さな写真を指さした。

 モノクロに現像された20センチ四方ほどの写真だった。

「(世界は)その四角いフレームのなかだけなんだよね」と重ねて言った。

 さらに、こんな話もあった。

 もっとずっと若いころに、彼は自分が誰だかわからないという経験を何度もしていた。

 よくよく話を聞くと、それは〝個〟が完全にない世界だった。

 当然だろうが、本人は何が起きているのかさっぱりわからなかったという。

 それは、大人になるうちにいつのまにか起きなくなったと言う。

 私はその説明をした。

 ふむふむと聞く彼。

 じゃあ、これは? じゃあ、こういうのは? と質問が飛び出す。

「へえー、おもしろいねえー」

 彼とこんな話をするなど、考えおよびもしないことだった。

 また、こんな意外な一面も。

「だいぶ前からヨガをやってんだ」

 はじめはハタヨガだったのだが、いろいろいきさつがあって、今はアシュタンガをやっているという。

「ええーっ、ほんと!」

 私にしてみると、彼がヨガをやっているなどというのは、私が刺しゅう教室にでも通うような違和感バリバリのこと。

 そして、私は彼のこんな言葉にさらに驚く。

「ヨガをはじめてからすぐに思ったんだ。もう知識を新しくつけるのはやめよう、ぜんぶを自分の体だけで感じたいって思ったんだよね」と。

まさに、まさに!

 そのあと彼は、私が話す、「この瞬間しかないこと、すべてが決まっていること」に強い関心を示した。

 私の話を聞き、自分がこうなることは決まっていたということを、なんとなくだけど、ずっと前から思っていた、と彼は言った。

「写真をやってると、まさにこの瞬間以外に存在しないことがはっきりわかるんだよね」

 そして、こう付け足した。

「切ないくらいこの一瞬しかないんだよ」

 切ないくらいこの一瞬しかない――。いい言葉だと思いません?

 やっぱりアーティストなんだなあ、写真家っていうのは。

 そういうものと、いつもつながっているというか、いつも触れているというか、感覚が鋭敏なんだな、きっと。

 そんなことを思いつつ、スタジオをあとにした。

 とても楽しい時間を過ごしたよ、という話でした。

〔 園長のおまけプロフィール② 〕

エッセイ『トンボのメガネ』全19回


 以前、『週刊 園だより ~園長雑記~』で連載していたエッセイ『トンボのメガネ』を、ひとつのページにまとめました。わたしのこどもの頃から30歳頃のことを、ざっくりとつづったエッセイです。

※文章のなかに、たまに、意味のわからないことばが、はさまってところがあるかもしれません。元記事の「絵文字」が勝手にテキストに変換されしまっているところです。気にしないでください。そのうち修正します。


はじめに


 園児さんに限らず、いろいろなところで、私のこども時代のことについて聞かれることが、まあまあ、ある。「どんなこども時代を過ごされたのですか?」と。

 それと、若い頃の話。10代、20代の頃の話だ。これも、いろいろな場面で、まあまあ聞かれる。

 そんなことで、しばらくわたしの若い頃の話をしていこうと思う。

 タイトルは、「トンボのメガネ」。


第1回 小学生時代 ~グラントハイツの思い出〈1〉~


 まず、生まれは、東京の練馬である。かつて「グラントハイツ」(知っている人いるかなあ?)と呼ばれるアメリカ空軍のキャンプのすぐ近くに住んでいた。芝生が敷きつめられた広大な敷地のなかに、空軍に所属する軍人とその家族が住んでいる場所だ。いまはもうない。

 アメリカ空軍の敷地なので、日本人は許可証がないと入れない。けれども、こどもの私たちにとっては、広い芝生の場所は、格好の遊び場である。

 鉄条網をこじ開けてつくった〝私たち専用の秘密の出入口〟からなかに入って、野球をするのが楽しみだった。何しろ気持ちがいい。転んでも、滑り込みをしても、足を擦りむいたりすることもなく、寝ころんでいるだけでも気持ちがいいのだ。やめられるわけがない。

 でも、ハイツ内は軍警察が巡回している。ドアに黄色い文字で大きく「MP」(軍警察の意味だと思う)と描かれた濃紺のごついピックアップトラックが見回っていて、そのトラックが、私たちを追い出すために、脅しで、芝生の上を、飛び跳ねるように猛スピードで私たち目がけて走ってくる。これが怖いのなんの。何しろ、「もし捕まったら、アメリカに連れて行かれて二度と帰ってこれないよ」などと聞かされていたのだから。でも、キャーキャー言いながら逃げていたのは、どこかで「そんなことがあるわけがない」と思っていたのかもしれない。

 記憶をたどってみれば、トラックを運転していたMPの人が、トラックから降りて、私たちを脅かすために、鉄条網の近くまで来て、こっちを見ているとき、顔が笑っていたようにも思う。一応、お役目としてやっていたのだろうが、半分、お遊びのようなものだったのかもしれない。私たちをからかって遊んでいただのだ。きっと。

 そんなことが数えきれないほどあったのだが、はっきりおぼえているのは、どのMPの人も、みんなサングラスをかけていて、こども心にも、カッコいいなあと、思ったことだ。


第2回 小学生時代 ~グラントハイツの思い出〈2〉~


「グラントハイツ」についてもう少しだけお話ししておこう。

 ふだんは許可がないと入れないのだが、年に一度だけ、許可なく入れる日があった。7月4日。アメリカの独立記念日だ。

 「グラントハイツ」全体がお祭りになる。それをはじめて体験したのは、たしか、小学4年生のときだったと思う。ハイツの中心部の方まで行くと、日本のお祭りと同じように出店(でみせ)みないなものが、たくさん出ていて、これがめちゃめちゃおもしろかった。食べ物は、日本のお祭りでは見られないようなものばかりが並ぶし、ゲームもいろいろあって、驚きの連続だった。

 たとえば、幅高さともに2メートルほどもある大きな透明の水槽の上に、飛び込み台のような板がかかっていて、その上に、カウボーイハットをかぶった水着姿の金髪の女性が座っている。こっちが手を振ると、笑顔で手を振り返してくれたりするのだ。そりゃ、楽しい。

 ゲーム代を払うと、野球のボールがいくつか渡される。そのボールを小さな丸い的(まと)をめがけて投げる。的に当たると、女性が水槽のなかに落ちる仕組みだ。バッシャーン!って。

 水槽に落ちたその女性に向かって、GIカットのアメリカ兵士のおじさんたち(だと当時は思っていたが、いま思えば、おそらく20代、30代の男性だったのだろうと思う)が、ヒューヒュー言ったり、大きな声で何か叫んでいた。アイ・ラブ・ユーとか(だと思う)。それに対して、女性が投げキッスで答えたりする。それに対して、おじさんたちが奇声を上げて、また盛り上がる。

 小学生の私にとって、なんとも刺激的この上ない。そのほかにも、見たことのないいろいろなゲームがあった。

 翌日には、持ち帰った1セント硬貨や5セント硬貨を、学校の友だちに自慢して見せたものだ。懐かしい思い出だ。円がまだ1ドル360円の固定為替の時代である。


第3回 父の教育 ~マンガご法度~


 私は、若い頃、というか、こどもの頃から、マンガというものに縁がない。テレビアニメとかもほとんど見ずに育った。

 父の教育の影響だ。何かと厳しいところのある父で、テレビアニメも含めて、マンガをいっさい見せてくれなかったのだ。ただ、それに対してとくに不満を抱いたりはしていなかった。むかしから、私は、誰かから何か「こうしなさい」と言われたことに疑問を持ったり、考えたりしない。

 そもそも私は、すごく小さい頃から、何かを欲しがるとか、あれが嫌だとかを、ほとんど言わないこどもだったらしい。それを高校生の頃に母から聞いて、「そういえば、そうかもな」と思った。それと、赤ん坊のころは、夜泣きはしないし、おねしょはしないし、少し成長してからも、反抗期まったくなし、ということで、「あなたは、本当に手のかからない子だった」と母が言っていた。だが、決して〝優等生〟ではない。基本、勉強はしない。いたずらと遊ぶことでいつも頭はいっぱいだった。

 また、さっき言った「誰かのことばに疑問をもったり考えることはなかった」というのも、すべてに従順というわけではなく、「違う」と思うものは、黙って無視をする。そして、好きなようにやる、そんな感じだった。が、父の命令だけはそうはいかなかった。いつも無言の圧力があったのだ。

 そんな圧力のかかった〝マンガ類一切禁止〟のなかで、あのテレビアニメ『巨人の星』がはじまった。私は、野球が大好きで、少年野球のチームに入ったばかりの頃だった。見たくて仕方がない。当然だろう。みんなが話題にしているし。

 だが、父に直接お願いするなどということは考えられないことだった。で、母に泣きついた。滅多に頼みごとなどしない私の頼みということで、母も、父に強く頼んだに違いない。

 それから、何日ぐらいたったかは覚えていないが、夜、父が帰ってきて、手渡されたのが、なんと『巨人の星』だった。アニメはダメでも、マンガ本は許してくれたのだ!と、一瞬喜んだのだが、すぐに、違うことに気づいた。堅い表紙だった(ハードカバー本)。そして、タイトルは、『小説・巨人の星』だった。梶原一騎の原作小説だったのだ。

 これが父の答えだった。

 ちょっとがっかりしつつも、読みはじめると、これがとてもおもしろかった。それと、本のなかに、えんぴつ画の挿絵が、何枚かあって、それを食い入るように見ていたのを覚えている。模写までした。このときに、自分は絵が得意なのだということがわかり、このあとしばらく「漫画家になりたい」という夢をもっていた。

 一方で、これがきっかけで小説のおもしろさを知り、その後、いろいろな小説を読むようになっていった。絵よりも、文章の方がおもしろくなっていった。自然に、漫画家の夢は消えた。こんなことがあって、私のなかに、マンガが入ってくる余地がないままにおとなになったというわけ。


第4回 中学時代 ~みんなと違う感覚~


 時代は、少し飛んで、中学時代。

 中学の三年間は、ずっと坊主頭だった。部活動である。陸上部。なぜ陸上部に入ることになったのか、どうしても思い出せない。

 小学生のときは、地域の野球チームに入っていた。野球が大好きだった。打順、トップバッター、守備はライトで、練馬区の大会で決勝戦までいった経験がある。優勝すれば、練馬区代表として、栄誉ある「都大会」に出られたのだが、その夢は叶わなかった。

 それと、小さい頃、ぜんそくだったことから水泳を習わされていた。なので、野球部か水泳部というのならわかるのだが、陸上部というのが、なんともわからない。まったく思い出せない。

 私がやっていたのは「中距離」というジャンルだった。800メートルから2,000メートルの距離を走る。大会では、おもに楕円の400メートルトラックを走る。野山や草原などを走るクロスカントリー大会にもいくつも出場した。クロスカントリーでは、3,000メートルを越すようなレースもあった。山のなかや、湖のまわりを走ったりするのは、とても気持ちがよかった。とくに、冬の大会が、私は好きだった。寒さのなかを走る感じが好きだった。

 スタート直前まで、寒さをしのぐために毛布に包(くる)まっていて、スタートの招集がかかったときに、毛布をはぎ取るときの「さあ!」という感覚が好きだった。いまの時代であれば、スポーツ用のロングダウンジャケットなのだろうが、私の中学時代には、ダウンジャケットなんて一般的ではなかった(と思う)。

 そんな中学時代だが、私には、まわりのみんなと違う感覚があった。

 いま目の前にないものが「ある」とはどうしても思えなかったことである。たとえば、いま目の前にいない親はいない、友人もいない、と感じていた。思考のなかだけにあるといった「ことばで表現できる感覚」ではなかったが、とにかく、「存在しないのだ」という感覚があったのである。

 だが、これは〝よくない考え〟だと感じていたし、また、誰かに言っても変な目で見られるだけだとわかっていたから、誰にも話すことはなかった。

 ただ、私は、むかしから、ものごとをあれこれ考えるようなことはなく、体を動かすこと、遊ぶことしか頭にないような若者だったので、このことについてもあれこれ考えることはなかった。やがて、「どうでもいいこと」のひとつとして、姿を現すことはなくなっていった。

 そして、あの〝空白〟の体験後、つぎつぎに押し寄せる「事実」とともに、ブログを書きはじめたころに、「そういえば中学の頃……」と思い出した。


第5回 高校時代 ~バンド活動&トンボの由来~


  高校に入ると、人生ではじめて髪を伸ばしはじめた。バンド活動にはまったのだ。中学二年からギターをはじめていたが、高校でバンドをやるなどとは思いもしなかった。

が、どういうわけか、気がついたら、軽音学部に入っていた。どういう経緯で入ったのか、まったくおぼえていないし、バンドを組むことになった経緯もさっぱり思い出せない。

 少なくとも、自分からつくったのではない。誘われたことはまちがいない。きっと何かそういうことが起きたのだろう。その流れにまかせたのだと思う。流されるまま。いつものことだ。

 バンドは、リーダー的存在がSという男で、ギター。Aという男がメインボーカル。これが学校内の軽音楽部のふたり。そこにギターの私。そして、ドラムとベースは、HとK。別の高校のふたりだった。

 海外バンドのコピーをする高校生のお遊びレベルのバンドだ。演奏は、へたっぴ。なのに、けっこうな人気だったり、文化祭の盛り上げ役だったりと、校内では、何かと注目されるバンドでもあった。

 まあ、そんなことで、高校時代は、バンド関係の仲間と遊びまくった。昼も夜も夜中も。

 とくによく遊んだのは、学校のなかでも、本当に勉強をしない、大学進学とか、将来のことなど考えない、考えるとすれば、「音楽でごはんを食べていきたい」などと考えている連中である。外野の一部からは、〝チーム極楽〟などと呼ばれていた。

 そんな〝チーム極楽〟のなかでも、「おまえは、ほんとーに、なんにも考えていないんだな」と感心されていたのが、この私なのだ。私としては、「何も考えていない」などと思ったこともない。そんなふうに振舞ったりしたこともない。意識外である。ごくふつうだった。

 だが、それが、まわりの連中からは、「ほんとに何も考えていない」と見えていたようだ。そして、つけられたあだ名が、〝トンボ〟だ。〝チーム極楽〟のなかの、つまり、トンボのなかの、〝筋金入りのトンボ〟というわけだ。

 それ以来、卒業するまで、私は、「トンボ」「トンボちゃん」「トンボさん」「トンボ先輩」などと呼ばれていたのである。

 そんなトンボ生活は、30歳を過ぎて、『成功哲学』という一冊の本に出会うまでつづいた。そのあと25年以上影をひそめていた〝筋金入りのトンボ〟が、突然の気づきを境に、「本当にいま以外にない」という、完成された〝究極のトンボ〟となって帰ってきたわけだ。


第6回 高校時代 ~時代を先取りしたファッションリーダー?~


  前回、高校時代、バンドでちょっと人気でしたという話をしたが、そんなことが関係して、ある時期、学校内で、ちょっとおもしろいことが起きた。

 私たちがバンドやっていた音楽は、〝泥くさい〟アメリカンロックのコピーで、その影響から、私のファッションも、なんとなくそんな雰囲気のものになっていた。ジーンズにネルシャツというのが、私のスタンダードなスタイルだった。

 そして、私のなかでは、ジーンズもネルシャツも、色褪せているほどかっこいい、みたいな感覚があった。アメリカンロックの象徴のように勝手に思っていた。情報の少ない時代だ。アルバムのジャケットや、数少ない音楽雑誌の写真を見て、そんなふうに思っていた。

 その〝色褪せ〟が、どんどんすすんでいった。そして、気がついたら、ジーンズの両ひざがパックリ割れ、腿は擦り切れてところどころ穴が開いていた。かかとがボロボロなのは言うまでもない。

 そして、ネルシャツも次第になかなかの仕上がりになっていった。はじめに肘に穴が開き、あるとき、裾が何かに引っかかって、ビリッと。それをそのまま着ていた。

 これには、じつは、家庭の事情なども関係していて、高校時代、私は、狭い家だったが、そこでほぼひとり暮らしのような生活を送っていたのだ。誰と何をしようと、どこに寝泊りしようと、親に何かを言われることのない、自由気ままな生活をしていた。が、その分というか、使えるお金が限られた。だが、遊ぶお金は必要。そんなことから、遊ぶお金のためには、服なんぞにかまっていられないというのが本当のところだった。もっていたジーンズは、一本だけ。汚れてきたら、夜、洗って、生乾きだろうが何だろうが、それを履いて朝、学校にいく。学校は私服だった。シャツは、二枚あったので、それを交互に着た。

 そんなことで、ボロを着て、自由に遊びまわる日々がつづいていたのだが、あるときから、軽音部の仲間が、私の服装に〝寄せてくる〟ということが起きはじめたのだ。

 ボロジーンズに、ボロネルシャツ。

 カッターでジーンズを切ったり、サンドペーパーでジーンズをこすって、わざとボロボロにしていた。

 それが、次第に、軽音部以外の連中にも広がっていったのだ。学校のあちこちで、ボロジーンズに、ボロネルシャツという出で立ちの男子がうろうろしはじめたのだ。なかには、「どうやったら、そうなるんですか?」とか「ジーンズのブランドを教えてください」などと聞きにくる下級生もいた。

 どうやるもこうやるもない。自然とこうなった、というしかない。本当のことだから。

 それから14、5年たってからだろうか、ダメージデニム、ダメージファッションなるものが、世の中で大きなブームとなった。ボロ加工をしたジーンズがショップに並んだ。

 私は思った。

 ふふふふ、そんなものは、高校時代に卒業したよ。しかも、私のは、〝つくりもの=養殖もの〟などではない、自然発生の〝天然もの〟だ、〝重み〟が違うんじゃ、と。

 履きつづけた一本のそのジーンズのブランドは、いまはどうなのか知らないが、当時は、誰も知らないようなブランドだった。MAVERICK(マーヴェリック)。上野のアメ横で、安かったので買った。

 昨年公開された映画『トップガン』 のサブタイトルをはじめて聞いたときには、「おおー!」と思った。


第7回 『成功哲学』に出会うまでは……


 前回のトンボの話で思い出したことがあるので、ついでに話しておこう。

 こんな質問をよく受ける。

 「このようなメッセージを発信している人のなかには、小さいころから、生きることに不安を感じていたり、『自分とは何なのだろう?』といったことに疑問や苦しみを感じていた、という方もいますが、金森さんも、そういったことはありましたか?」というようなこと。

 人はなぜ生まれてくるのかとか、死に対する恐怖とか、そういうことも思わなかったか?と。

 答えを先に言うと、そういうことを感じたことはない。考えたこともない。ゼロである。本当に遊ぶことしか頭になかった。

 ただ、中学時代に、こんなことがありましたよ、という話は、第5回に話したとおりだ。

 それ以外には、まじめに(?)働きはじめたころ、みんなが、なぜそんなことで怒れるのか、「いま」の売上を「いま」悩んでいるなどということがどうしてできるのかが、理解できなかった、ということはあった。

 まさか、当時は、「それがただ現れているだけ」「そうなるようになっていた」などと思ってはいなかったが、「それはいま考えてもどうにもならないで」と思っていた。だから、そういう場面に出会うと、違和感をもったのだ。なぜ悩むのだ、と。それはそれだよ、と。考えるようなことじゃないでしょ、と。

 けれども、これは仕事をなめているとか、斜に構えているとか、やる気がないということではない。30歳を超えて、『成功哲学』(ナポレオン・ヒル著)という本に出会い、「自分の居場所はここではない」と思うようになるまでは、アルバイトでも何でも、仕事そのものを嫌だと思うようなことはなかった。仕事は好きだった。どんな仕事でも、のめり込んだ。残業が嫌だと思ったこともないし、終電がなくなって会社に泊まることも、何とも思わなかった。

 ただ、いま現れている売上をあれこれ考えるまわりの人間に対して、どうしてもなじめないということは、ずっとつづいた。そんなことより、ただただ目の前にある仕事に、いつも夢中だった。楽しかった。

 それが、『成功哲学』に出会い、夢を追いかけるような生き方になって一変したのだ。いま目の前にある仕事がつまらなくて仕方がなくなったのである。いまいる場所は、自分がいるべき場所ではない、という感覚から抜けられなくなったのである。今のこんな自分ではなくて、ずっと先に、違う自分が待っているのだ、と。


第8回 10代の終わり ~サーフィンとの出会い~


 高校の二学期に入った頃、突然の家の事情から大学進学の道が消えた。そもそも大学進学について、とくに考えてもいなかったので、それ自体、あまり気にはしなかったが、だからといって、即、就職という気もせず、まわりからの「どうするんだ、どうするんだ?」という声を無視し、遊びに明け暮れているうちに、卒業となった。

 そんなことなので、卒業後、何をやるということもなく、アルバイトなどをしながら、毎日を過ごしていた。ただ毎日がなんとなく楽しかった。やったことのないアルバイトの経験、いろんな人との出会い、ぜんぶが楽しかった。

 そんなある日の夕方のこと。もう何十年も前のことなのだが、この光景は、鮮明に記憶に残っている。

 4時ごろだった。渋谷の街をぼんやり歩いていたとき、ふと見上げた古いビルの2階のガラス窓の端に、映画らしきものを映しているスクリーン画面が見えた。薄暗い店内の壁に〝Budweiser〟という筆記体文字のネオン管が光っていた。お酒を出す店なのだろう。窓の端っこに、「We're OPEN」と書かれたプレートが見えていた。

 なんとなく興味をそそられて、暗く狭い階段をのぼっていった。ちょうどコーヒーでも飲みたい気分だった。それと映画だ。むかしから洋画が好きだった。こどもの頃から、12チャンネルで放映される古いモノクロの映画を夢中で観ていた。ホラー映画以外なら、ジャンルを問わず、何でものめり込む。人がしゃべったり動いていれば、たいていのものはおもしろかった。

 店のなかに入ってみると、外から見たときよりも、さらに暗く感じた。理由はすぐにわかった。映画を映していた画面が、真っ黒の画面に白い英語文字が下から上に流れていたからだ。エンドロールだった。外から見えたさっきの映画が終わったのだ。ちょうどいい。きっと別の映画がはじまるだろう。もしかしたら、同じやつ。いずれにしても、はじめから見られるのはラッキーである。とくに用事があるわけでもなかった。ゆっくり見ていこうと思った。お客は私以外に、もうひとりだけ。店内は静かだった。

 コーヒーはすぐに出てきた。しばらくすると、映画がはじまった。タイトルは、『ビッグ・ウェンズデー』。サーフィンを題材にした青春映画だった。食い入るように最後まで見た。エンドロールがすべて終わるまで、目を離さなかった。おもしろかった。ある意味、衝撃的だった。サーフィンということばは知っていた、どんなものかも、なんとなくは知っていた。

 けれども、それまで知っていたサーフィンとはまったく違うサーフィンが、このとき、私のなかにくっきりと刻み込まれたのである。

 その二か月後、私は、湘南のボロアパートに住んでいた。「サーフィンがしたい」それだけのために。

 ちなみに、そのボロさ加減は、プロフィール欄のエッセイのなかで、ちょっとだけ書いてあるので、よかったらお読みいただきたい。「人生二度目のモーニンググローリー」というエッセイだ。


第9回 サーファー時代 ~湘南へ引っ越し~


  そんなことで、いつものように、あとさきも考えずに、海まで自転車ですぐの場所に引っ越してきたわけだが、サーフィンについて、実際にはまだ何も知らない。数少ないサーフィン雑誌を何冊かと、初心者向けのノウハウ本を一冊読んだだけ。

 とりあえず、悪い方ではない体のバランス感覚と、こどもの頃にやっていた水泳が、おおいに役立ちそうなことだけはわかった。

 当時は、ユーチューブなどなかった。そもそもインターネット自体が、ずーっとあとになって現れるのだから。メールさえなかった時代だ。いまは、ユーチューブで、初級者・中級者向けのさまざまな動画が公開されている。プロの人たちがていねいに説明してくれる。いまの若い子たちは恵まれているね。

 で、私がどうしたかというと、アパートの一番近くにあったサーフショップに通ったのである。もちろん、そのショップでサーフボードやウェットスーツ、そのほか必要なものを揃えた。それで、オーナーや店で働いている人に、いろいろ話を聞く。働いている人も、全員、もれなく上級者である。プロだっているのだ。もし多少でもお金の余裕があれば、ショップが開くサーフィンスクールに参加すればいいのだが、そんな余裕などない。言い忘れたが、サーフボードは、もちろん、中古のボードである。かつては真っ白だったはずが、長年の使用で黄色く変色して、表面がでこぼこになっているような代物だ。それでも、楽しかった。海に入っているだけで楽しかった。

 そうして、実際に、海に入っているときは、ショップで知り合った、プロも含めて、上級者たちの、パドリング(サーフボードに腹ばいになって、手で水をかいて、すすんでいくこと)とか、波の取り方とかを、とにかく観察することからはじまった。見る、見る、見る。そして、まねごとをしてみる。そして、また、見る、見る、やってみる。そのくり返しだ。

 さきほど、いまの若い人は恵まれているね、と書いたが、1メートルほどの距離で、生で、上級者やプロが波を、ひとかき、ひとかきするようす、その音、体の使い方、そして、息づかいまで感じられるのは、やはり、ユーチューブで動画で見るのとは、まったく違う。リアルだ。動きがぜんぶダイレクトに伝わってくる。

 サーフボードに立ち上がるときのようす、サーフボードが波の上を走り出すようすが、生で伝わってくるのだ。気圧されるほどの躍動感、それを味わい、感じる、そんなことを楽しんでいた。

 それも、顔見知りになっているからできるのだ。知りもしないで近くでじろじろ見ていたら、怖い顔でにらまれるのがオチだ。上級者とかは、海ではとても怖いのだよ。

 みなさんは、知らないと思うが、海のなかは、ルールもあるしマナーも大事なこと。それを守らないと、海から放り出される。海を大切にしているローカルサーファーも大勢いる。へたをすると、ボコボコにされてしまう。そんな時代でもあった。

 と、まあ、こんな感じで、私の〝湘南サーフィン三昧生活〟がはじまったのである。


第10回 サーファー時代 ~いったい、ここは誰の家なのか?~


 こうしてはじまった〝湘南サーフィン三昧生活〟。

 毎朝、夏は4時ごろ、冬は6時ごろに起きて、海まで自転車で波のようすをチェックしにいく。波があれば、支度をして、海に向かう。波がなければ、もうひと眠りする。

 午後は、アルバイトがあれば、アルバイト。中華屋さんとか居酒屋だ。アルバイトがない日は、サーフショップに遊びに行って、店の人としゃべったり、サーフィンの雑誌やビデオを見る。そんな生活だ。

 プロフィール欄のエッセイのなかでも書いたとおり、私が住んでいたアパートは、なかなかのボロさ加減で、玄関の扉がちゃんと閉まらなかった。かなり力をかけないと閉まらない。なので、出かけるときは、それが面倒くさくて、ドアの前に、ブロックを置いて、ドアが風で開いたりしないようにして出かけていた。空き巣に入られたことはない。まあ、空き巣も避けるような見た目だったということだろう。家にいるときは、ドアは、基本、そのまま。ただし、夜、寝るときだけは、がんばって閉めて寝た。

 そんなことなので、サーフィン仲間が、だれかれ構わず入ってくる。勝手に入ってきて、台所でお湯を沸かし、買ってきたカップラーメンを食べながら、どうでもいいことをしゃべって帰っていく。勝手に入ってくるのは、私が留守のときもなのだ。朝昼夜、かまわずに。私がアルバイトから帰ってくると、誰かが寝ていたり、テレビを見ていたりする。宴会をやっていたりね。

 まあ、それはそれで楽しかったので、気にもしなかったのだが、そのうち、みんなが、部屋をサーフボード置き場のように使い出したのである。どういうことかというと、私の部屋は、ボロではあるが、ふた部屋あった。板の間の台所――フローリングのキッチンなどというものではなく、板の間の台所ね――と、タイル張りのお風呂(温度調節機能などなく、自分で火を止めないとえらいことになる。熱湯風呂である)と、六畳の部屋がふたつ。しかも、いまのマンションなどの六畳とは違う、むか~しのちゃんとした六畳はけっこう広いのだ。畳自体がデカい。その片方の六畳の部屋には、よく古い和風の旅館などで、畳の部屋の奥の窓際が板張りになっていて、そこにテーブルといすが置いてあったりするスペースに似たような板張りスペースもくっついていていた。なので、無駄に広い。

 その部屋に、文庫本が山積みになっている以外、モノがほとんどないのをいいことに、みんなが、勝手にサーフボードを置いていくようになっていったのだ。自分の部屋では大きすぎてじゃまになるロングボードとかを。最初は、ひとりふたりだったので、なんとも思わなかったが、どんどん増えた。何しろ、いつでも出入り自由の部屋だからね。

 そこで、あるとき、私は、みんなから、預かり代を徴収することにしたのだ。サーフショップでサーフボードロッカーを借りたら、1か月2、3千円はかかる。ロングボードならもっと高い。

 なので、「月500円払え」と言った。それでも、1万円ほどにはなる。だが、やつらは、「現金じゃなくて現物にしろ」と言い張った。缶ビール6缶パックとか安~いウィスキーでいいだろ、と。私にしてみれば、現金より、実質上、高くなるので、快く承諾した。

 しかし!

 これが、失敗だった。

 なぜか。

 やつらが、勝手に上がり込んでぜんぶ飲んでしまうのだ。ちょっと考えればわかりそうなものだった。くり返すが、何しろ、いつでも出入り自由の部屋だから。

 それで、〝収め量〟を二倍にしたが、ほとんど意味はなかった。まあ、私の飲む分もいくらかはあったので、まあ、いいでしょ、ということで、なんとなくそのままに。ただし、私が直接知らないほかの仲間には教えないこと、という条件つきで。

 でも、いま思うと、みんな、部屋はきれいに使ってくれていた。飲み食いのあともちゃんと片付けていたしね。砂が入ると、ちゃんとそうじとかもしていた、自分たちで(笑)。意外にちゃんとしていた。

 基本、私がそうじとかをしない人間なので、みんなのおかげで、部屋はかえってきれいになっていたかもしれない。そんな生活を送っていましたよ。


第11回 サーファー時代 ~小説好き~


 前回、部屋がみんなのサーフボード置き場になっていたよ、という話のなかで、「文庫本が山積みになっていた」(本棚がなかったからね)と書いたのだが、それで、思い出したというか、ふと思ったので書くことにした。

 わたしは、いろいろなところで、本はまったく読まないと言っているが、一応、それは、ノンデュアリティとか、精神世界関係の本とかのことである。

 小説は読む。いまはたまに読む程度だが、むかしは、けっこう読んだクチだ。第3回の「トンボのメガネ」に書いたが、こどもの頃、いっさいの漫画というものを許してくれなかった父のおかげ(?)で、文字のおもしろさというものを知った。

 中学に入ってからは、海外の推理小説にどっぷりはまった。いまこの場で思いつく作家は、ヴァン・ダイン、ガストン・ルルー、エラリー・クイーン、ディクスン・カー、アガサ・クリスティ、F・W・クロフツ、あとは出てこないが、ネットで調べれば、「その作家も読んだ、それも読んだ」というものがたんまり出てくると思う。とにかく、翻訳ものばかりを読みあさった。とくこだわりがあったわけではない。なんとなく好きだっただけだ。

 サーフィン時代も変わらず、いつも何か読んでいた。それで文庫本が山積みになっていたというわけである。この頃から、日本の作家の小説も読むようになった。まあ、何でも読んだが、とくに好きで、片っぱしから読んだのは、筒井康隆、小松左京、片岡義男といったところ。手あたり次第に読んだ。まあまあ読んだのは、松本清張、山崎豊子など。それと、作家を問わず、戦国時代小説が好きで、けっこう読んだ。もちろん、翻訳ものも相変わらず読んでいたが、このころにハマったのが、ジェフリー・アーチャー。なかでも「ケインとアベル」と「百万ドルをとり返せ!」は、何回読んだかわからない。

 一応、純文学といわれるものにも手を出したが、要するに〝かっこつけ〟だ。俺はこんなものだって読んでるんだ、みたいな感じ。正直、楽しめたとは言えない。ただ、三島由紀夫の作品だけは、引き込まれるように、いくつかの作品を読んだ。だが、そのほかの純文学系の作品にはどうしても入っていけなかった。もともとが文学青年ではないわけで、私にとって小説は、あくまでも、エンタテインメントとしての楽しみだったから。

 そんなことで、いろいろな小説に接してきたわけだが、30歳になってすぐの頃に、『成功哲学』という本に出会ったあと、わたしのなかから小説というものが消え、すべてが自己啓発書とビジネス関連書に取って変わったのである。まあ、とにかく読みまくった。何でもかんでも。成功者と言われる人たちの自伝的なものも、この時期にたくさん読んだ。

 50歳をすぎた頃に、突然、「成功とかそういうの、もういいよね、疲れたわ」となって、すべての自己啓発書とビジネス書を処分して(←このあたりのことは、ホームページ『園長の金森です』ページの〔私が気づきに至るまでのこと〕に書いた)から何年かして、たまたま谷崎潤一郎の作品を読む機会があり、改めて、とくにその表現の素晴らしさに感銘を受けた。が、それでも、やっぱり、私は、純文学系には、どうもハマらないようである。

 ということで、わたしは、決して本そのものが嫌いなわけではありませんよ、という話。


第12回 サーファー時代 ~「ひとつ」になった体験〈前編〉~


 いつも語っているように、私たちが生きているようすというものは、本来、「ひとつ」でしかあり得ない。わたしがいて誰かがいて、あっちがあってこっちがあって、いまがあって過去があって未来があって、というような活動はしていない。つねに「ひとつ」である。ただ、その自覚があるかないか、である。

 その「ひとつ」というものをはっきりと感じたのが、サーフィンでの体験だった。もちろん、そのときは、そんな「ひとつ」などということは知りもしない。ただ「いままでにない感覚」を味わったというものだった。

 それは、湘南に移ってから三年ほどたったときのこと。毎日のように海に入り、上級者の人たちからいろいろなものを吸収して、まあ、そこそこ波に乗れるようになっていた。

 10月のはじめ頃だった。台風が来ていて、波が大きい日だった。

 サーフィンをやったことのない人にはわからないかもしれないが、波というものは、なかなか怖いのだ。波に巻かれて、水面になかなか上がってこれなくて、死にそうになったという経験もしていたので、そういう恐怖もあるのだが、そういうことではなく、なんというか、自然の力というか、人間には到底およばない大きな力に対するものなのか、漠然とした恐怖である。とにかく、恐怖がある。波が大きくなればなるほどそれは強くなる。

 沖に出て、波を待つ。サーフボードにまたがって波間に浮かんでいると、波の大きなうねりに体が、ゆっくり、大きく、上下に運ばれる。そのうちに、「あれに乗ろう」という波を沖に見つける。大きく深呼吸をしてから、サーフボードに腹ばいになり、パドリングをはじめる。波に乗るために、向きを岸側に向ける。パドリングの調子を波の迫り方に合わせる。波の都合に合わせるのだ。当たり前のことだが、自分の都合などいっさい通用しない。パドリングのスピードをさらに上げていく。

 波が間近に迫ってくると、足の方から、一気に体が大きく上に持ち上げられていく。足が上で、頭が下になる感覚。全力で水をかく。〝かく〟というより〝もがく〟に近い。波がさらに切り立ってくる。サーフボードが波をとらえ、前に押し出される。空中に放り出されるような感覚だ。このときが一番怖い。行くかやめるか迷う。その恐怖を乗り越えて、サーフボードの上に立ち上がる。時間にすれば、一瞬のことなのだが、実感としては、スローモーションのように感じる。

 膝を深く曲げ、体勢を低くして、切り立つ波を横に走る。波の動きを感じながら、波の上の方を走ったり、下に向かって、さらに加速して、そのスピードを使って、鋭角に波のトップに向かう。たまらない感覚である。

 何本かの波に乗ったあと、その日、それまでに乗った波より、さらに大きな波が、はるか沖からやってくるのを目がとらえた。私を含め、同じ付近で波待ちをしていた全員が、無言で、いっせいに沖に向かって、全力に近いパドリングをはじめる。その波をつかまえるため、というのもあるが、それよりも、いまいる場所にいたのでは、崩れた白い波に飲み込まれるからだ。飲み込まれる位置がわるいと、自然の威力というものを、これでもかと思い知らされることになるのだ。


第13回 サーファー時代 ~「ひとつ」になった体験〈後編〉~


 全力に近いパドリングで沖に向かう。どうにかうねりを乗り越えることができ、分厚い白い波を食らわずに済んだ。波はつぎつぎにやってくる。大きなうねりは、何本かつづけてやってくる。サーフィン用語で「セット」という。それもギリギリのところで乗り越える。

 上級者は、その日一番のセットの、さらにそのなかの一番大きなの波をねらう。だが、この当時のわたしのレベルだと、コンスタントにこれだけ大きな波が来ている状況では、セットの波じゃなくてじゅうぶん。というか、セットじゃない方が楽しめる。

 つぎつぎにやってくる波のうねりで、体が、ゆっくり大きく上下する。波を乗り越えるとき、岸からの風が大量の波しぶきをつくり、体に吹きつける。遠くの沖に、つぎのセットが見えた。大きそうだ。

 「行ってみっか」怖いけど……。

 腹ばいになり、波のピーク(波のもっとも力のある場所)に向かって、パドリングで横に移動する。波が近づいてくる。円を描くようにサーフボードの向きを岸側に変えていく。波の迫り方にあわせて、パドリングのスピードをあげていく。波がすぐ後ろに迫る。体が一気に持ち上げられていく。

 「思ったより、デカイ……」

 鼓動が激しくなる。行くかどうか、一瞬迷う。が、つぎの瞬間、「どうにでもなれ!」とテイクオフ(テイクオフとは、走り出したサーフボードに立ち上がること)。一度、波の下までまっすぐに下りてから、カーブを描いて上にあがり、波の中腹に位置を取る。垂直に近く切り立った波を、横に駆け抜けているときだった。

 まわりの音が消えた。

 サーフボードが波を切る音、うしろで波が崩れる音、それまで耳に入っていたあらゆる音が消えた。映像だけがあり、自分が波の上を走っているのではなく、自分は止まっていて、波だけが動いているような感覚。波が、止まっているサーフボードの下をくぐって、切り立って、上から降りかかってくる、そんな感じ。そして、まったくの無音。

 我に返ったときには、波の力が失せ、小さなうねりになっていた。サーフボードの向きを変え、波から降りたそのとき、大声を上げたくなるほどの喜びがわきあがってきた。抑えきれない喜び。何ともいえない至福感に包まれた。波を乗り切ったとか、そんなことでもない。何かを得たわけではない、それなのに、それ以上何も必要のないような感覚。いまの波を振り返ってみると、ただ波だけがあった。映像としてだ。実物の波という感じではない。夢のなかのような。ただ波が映像としてあった。そんな感覚。このときは、ただ「これがサーフィンの本当の醍醐味なのか」と思っただけだった。素晴らしい体験、ただそれだけだった。

 このことを、すぐにサーフィン仲間に話したが、みんな、一様に、反応が薄いといういうか何というか、「うーん、そうだな、消えるかも」程度のリアクションしかなかった。

 それから二週間ほどたった頃だった。サーフショップで古いサーフィン雑誌のページをめくっていると、ある記事が目にとまった。海外の有名なビッグウェーバー(けた違いの大きな波ばかりに乗るプロサーファー)のインタビュー記事だった。インタビュアーの「死と隣合わせのような恐怖をどのように克服しているのですか?」という問いに、彼はこんなふうに答えていた。

「波とひとつになればいいんだよ。波そのものになるんだ。そうすれば恐怖なんてないよ」

 この記事を読んで、「ああ、そういうことだったのか。あのとき自分も波とひとつになっていたんだ」と思った。しっくりきた。波の大きさは比べものなどならないが、理屈は同じに違いない、そんなふうに思ったよ、という話。

 わたしたちは、ひとつではないときなどない。けれども、それを自覚するには、何かしらのきっかけが必要なのだ。


第14回 働きはじめてわかったこと ~連想が起きにくいわたし~


 湘南サーフィン三昧生活も6年目に入り、25歳になった頃、ふと思った。そろそろちゃんと働いた方がいいのではないだろうか? いつまでも定職につかずに、働いたり働かなかったりという生活もどうなのだろうか、と。そんなことで、とりあえず東京に戻ることにしたのだ。26歳になる少し前のことである。サーフィン仲間が、駅近くの路地裏の、ステキなステキな居酒屋を借り切って、盛大なる〝らんちき送別会〟をやってくれた翌日、それはそれはひどい二日酔いのなか、辻堂の町にサヨナラをしたのである。

 こうして東京に戻ってきて、とりあえず働き出したわけだが、このころに気づいたのが、わたしは、連想というものが起こりにくい男なのだ、ということだった。気づいたというか、気づかされた。まわりで働くみんなが、連想によって仕事をしているのだと気がついた。これをすればこうなるああなる、と。その組み立てが早かったり、じょうずな者が、いわゆる仕事ができる者らしい、と。であるならば、わたしは、とことん仕事ができない部類に入ることになるわな、と気づいたのである。

 たとえばだが、わたしは、雨を見て、「雨だ」としか出てこないことが多いことに気がついた。傘がいる、さえ出てこなかったりする。それについて意識して自分から考えようとしないと、そこに考えがおよんでいかない。雨、それだけで終わっていた。とにかく、ものごとを連想するということにおいては、かなり欠落していることに気づいたのだ。ただ、学生時代に、勉強は嫌いだが、オツムが極端にわるいわけではないらしいと感じる場面が何度かあったりもしたので、少しくらい回転が遅いのが何だってんだ、いいじゃないか、別に、などと思っていた。

 一方、いわゆる頭の回転のはやい人というのは、たいてい連想がすごい。こうなって、ああなって、こうして、ああして、こういう場合には、ああしてこうして、これが瞬時に出てくる。だから、仕事もできる。上から指示を受ければ、即座に連想を働かせ、ことばの真意をとらえて、自分がやるべき仕事を的確に把握し、それを実行したりする。気が利く、っていうこともある。先まわりしてものごとを考えられるわけだから。まあ、すごいね。連想力というのは、そういうところにも出てくるわけだ。

 わたしは、それが徹底的にだめなのだ。驚くほど。ほんとに。連想というものが起きていかない。だからね、気なんてまわりませんよ、人の考えの先まわりをしてものを考えるなんていうことが、まず、ないんだからね。「気がきかないねー、あの人は」と言われる筆頭タイプである。

 でもね、これもわるくはないのだ。連想が起きないというのは、じつは、よく見てみれば幸せの近くにいるともいえるのだ。だって、連想というのは、思考の連鎖だからね。ものごとの〝関係性〟をたどるだからね。起きない方が、楽なのよ。絶対に。

 それで、みなさんにも、「連想をしなさんな、考えが連なっていることに気づきなさい」なんてことを言ったりもしているわけです。


第15回 時間の流れが違うが、20代の終わりから30代はじめの頃の話をちょっと


 会社勤めをしていた頃だが、私ほど凡ミスをする人を見たことがない。大きいミスもだ。これは、みなさんが想像するより、はるかに上をいっていると思う。すごいから、ほんとに。

 言われたことがまともにできない。何かが抜けたり、違うことをやってしまう。ものすごく単純なことをまちがえる。指示をちゃんと聞いていれば、まちがえようのないようなことをまちがえるのだ。ちゃんと聞いていないとか、やる気がない、そういうことではない。ちゃんと聞いている。基本、仕事は好きだから、本人はちゃんとやろうとしている。なのに、である。

 30代で会社を経営するようになってから、たくさんの人を雇ってきたが、私ほどミスをする従業員に出会ったことがない。そのなかで、ひとり、ほかの者よりも突出してミスをする男がいた。ほかの従業員からのクレームもかなりあがってきた。ひとことで言うと、「どうにかしてほしい」という内容だ。そのぐらいミスを頻発する者だった。でも、それほどの者でも、私から見ると、まだまだかわいいものだとしか思えなかったのだ。そんなこともあって、わたしは、ミスということに関してだけは、どうしても、人を叱れないのだ。「ミスはしょうがないでしょ」としか思えない。ま、そのくらい、わたしが会社勤めをしていたころは、レベルが違っていたということである。だから、ミスをしないという点においては、みんなのことを本当にすごいと思う。いまでもね。

 そもそも、私が会社をつくろうと思った理由のひとつが、ここにもあって、人に指示されても、ミスをするから、ならば、指示される機会が少しでも少ない仕事をするしかない、という思いがあったのだ。言いつけられた用事がちゃんとできないなら、言いつけられにくい立場になるしかない。言いつける立場になるしかない。そうだ、経営者になればいい! わたしが快適に生きる道は、それだ!と考えたのだ。これ、大まじめな話。

 このことと、ナポレオン・ヒルの『成功哲学』に出会った時期的とがぴったり重なって、「よし、事業をはじめよう!」と思ったのだ。どんな事業をやるかなんて考えもしない。とりあえずはじめてしまえ、と。30歳を過ぎた頃のことである。

 ミスをする、言われた用事がちゃんとできないということに関しては、もちろん、いまもバリバリ健在である。身内の者は、それをよおーく知っている。金森という体は、そういう体なのである。


第16回 26歳のときに、湘南から東京へ


 さて、湘南から東京に戻ったのはいいが、何かやりたい仕事があるわけでもない。引っ越しの荷物をとりあえず片付け終わり、電話もつながった(携帯電話などというものは、まだ一般に普及していない時代。携帯電話といえば、車のバッテリーほどの大きさでしたよ)ので、久しぶりに東京の友だちに電話でもしてみるかとも思ったが、約6年ぶりとなる渋谷をぶらぶらすることにした。駅からだいぶ離れた裏通りにしゃれたカフェがあったので、ふらっと入った。

 そのとき、わたしはまったく知らず、あとから知ったのだが、そのカフェは、青山や名古屋などにも店があって、業界ではかなり知られた店だった。どおりで、渋谷の外れで、人通りもない場所で、平日なのに、ずいぶんにぎわってるなとは思っていた。

 一週後、わたしは、そこで働きはじめていた。きっかけは、店長らしき人が、カウンターでぼんやりしていたわたしに話しかけてきて、いろいろ話しているうちに、「うちで働かない?」と軽~く言われ、その場で、「いいですけど」と軽~く返事。その店は、お客さんに積極的に話しかける店のようだった。あっちのスタッフもこっちのスタッフも、お客さんと何やら楽しげに話していた。で、お客さんが年下なら、いきなり〝タメ口〟である。もちろん、わたしにも。「どこ住んでんの?」みたいな。それも、なんだかおもしろいと思った。スタッフの服装もとても自由な感じで、長髪の人もいたりして、辻堂で通ったサーフショップの人たちと通ずるものがあって、そのあたりも惹かれた理由のひとつだった。

 それより、働いてみて一番驚いたのは、常連さんの層だった。事業経営者がやたらと多い。遊び人っぽい社長さんたちばっかり。それから、モデルや、テレビで見るタレントなどもいる。カフェのオーナーが、六本木や麻布あたりを夜な夜な遊びまわっている人で、芸能人とのつながりも多く、当時、大人気だったトレンディ俳優などといっしょに店に来るなんていうこともあった。そのほか、デザイナー、コピーライター、イラストレーターといった職業の人たちなど、わたしにはそれまで縁のなかった人たちばかり。有名な飲食店のオーナーやらシェフなどもいた。そのなかに、のちに『料理の鉄人』として活躍するシェフもいた。つい先日、そのシェフと三軒茶屋でばったり会った。色の黒さと、元気さは相変わらず健在だった。しばし話に花を咲かせた。いまだに、たまに青山の店にはよく行くらしく、カフェのオーナーも相変わらず元気いっぱいで遊びまわっているとのこと。もうけっこうな年齢のはずだが。まあ、よかった、よかった。

 個性ゆたかな遊び人の社長さんたちがたくさんいたわけだが、わたしは、その何人かに、なぜかかわいがってもらえて、よくいろんなところに夜遊びに連れて行ってもらった。都内のみならず、横浜とか、いろいろ。これがたまらなく楽しかった。まったく知らない世界ばかりだったから。乗せてもらえる車は、ベンツとかポルシェ、そんなのばかりだし。ベントレーとか古いカルマンギアなんていうのもあった。それだけでも、楽しい。車から下りるときとか乗るときとかに、なんとも言えぬ優越感みたいなものがある。自分の車でもないのにね。なにせ、若干26歳の、なんにも知らない若者だから。


第17回 29歳の頃 ~転職~


 そんな楽しいカフェでの仕事も丸3年を過ぎた頃、あるとき、ふと「何か別の仕事がしたいなあ」という思いがわき上がった。カフェの仕事に不満があったわけではない。これといったきっかけがあったわけでもない。ただそう思ったのだ。

 近所の本屋で求人広告雑誌を買い、夜、パラパラとめくっていたら、ページの半分ほどを使った大きめの求人広告に目がとまった。

 ニューヨークで有名なパーティーケータリング会社と、日本の商社が共同出資してつくった会社で、パーティーやイベントの企画運営やレストランを展開する会社らしい。発起してからまだ一年ほどだが、すでに表参道と神宮前と丸の内にレストラン、品川にセントラルキッチン、恵比寿には大きなパーティー会場があるとのこと。近々、銀座と日本橋の百貨店にデリカテッセンを出店するらしい。そのほか、ニューヨークの会社が出版しているたくさんの料理本の日本語版の出版などもやっていく、といったことが書いてあった。なんともまあ、スケールの大きな話ではないか。純粋におもしろそうだと思った。

 4か月後、わたしは、その会社で働いていた。わたしが配属されたのが、イベント・パーティー企画運営事業部の営業だった。「経験なし」での募集は、営業職だけだったので、自然とそうなったのだ。こうして、人生ではじめてスーツを着て働くことになったのである。

 仕事の内容は、お客さんの要望と予算を聞き、イベントやパーティーのプランを立てる、そのアシスタント。アシタントなどと聞こえはいいが、要は、雑用係だ。企画の立案からスケジュール立て、厨房を仕切るシェフやパティシエさんたちとの打ち合わせから、パーティー会場設営の手伝い、現場の仕切り、そのほか、配送用の車の運転から、買い出し、何でもやる。とにかく、やることは山ほどある。もちろん、わたしのことだ、ミスをしまくる。しかし、仕事をはじめてわたしが思ったのは、世のなかにこんなにおもしろい仕事があるのか!ということだった。素晴らしい上司にも恵まれた。すべてが楽しくて仕方がなかった。そして、貴重な体験をいろいろさせてもらった。


第18回 会社員生活 ~忘れられないイベント~


 わたしが配属されたパーティー事業部は、会社名とは別に、ニューヨークでたいへんよく知られたケータリング会社の名前を看板に掲げていたことから、外資系の会社からの依頼が非常に多かった。会社が催すイベントや、CEOや幹部の家でのホームパーティーなどだ。ホームパーティーと言っても、その多くが麻布や広尾や白金などにある外人用マンションで、広い広い。ハンパない。

 そのなかでも、わたしの記憶にいちばん強く残っているのが、ある石油会社のCEOの家だ。とにかく部屋がたくさんあって、ゲストルームがいくつ、バスルームがいくつ、みたいな感じ。廊下が入り組んでいて、冗談抜きで迷う。ほんとの話。あとになってから、家賃が月340万円!だと聞いた。一年じゃないよ、ひと月。笑うしかない。30年以上も前だ。いまの感覚でいうと、400万円ぐらいの感覚になるのかな。

 それから、ある銀行の日本支社長の家もすごかった。打ち合わせに行ったとき、その家のひとり息子(小学1年生)に、なんだか気に入られてしまい、かくれんぼにつき合わされた。上司から「こっちはいいから、遊んでやれ」と(まあ、打ち合わせはぜんぶ英語だから、わたしがいても役には立たないわけですよ)。かくれんぼは、もちろん、わたしがずっと鬼。ほんとに見つからないのだ。部屋が多すぎて。打ち合わせを終えた上司は、さっさと先に帰ってしまった。奥様から、わたしをもう少し居させてほしいとお願いされたらしい。こどもの遊び相手にだ。しかし、当然だが、こどもも英語がペラペラ。何言ってるか、さっぱりわからん。そのうち、わたしへの英語レッスンがはじまったのだ。これにはまいった。でもまあ、ママさんからとても感謝されたので、よかったが。そんなことがあったり、そのほかにも、たくさんたくさん、それはそれはすごいお家を拝見させてもらった。

 それと、パーティー慣れした外人さんたちのスマート立ち居振る舞いをいっぱい見たおかげで、「ああ、パーティーでは、こういうふうにするといいのね」という、ゲストのマナーみたいなものも学べた。ちょっとおしゃれなパーティーに招かれても、そこそこスマートに振る舞える自信がついた。

 イベントの内容として、印象深く記憶に残っているのが、ある美術館の改装記念を祝っておこなわれた屋外パーティー。これがまたおもしろかった。芝生の敷き詰められた広い庭にサーカスのような巨大なテントを張って、庭ぜんぶをパーティー会場にするのだ。とくに夜のライトアップ演出が楽しかった。この手の野外のパーティーには、トラブルが必ずといっていいほど発生する。はらはらドキドキだ。電気がショートしたり、動くはずの機械が動かなかったり。まあ、でも、とにかくぜんぶがおもしろい。

 そして、忘れない大きなイベントがふたつある。大学の卒業記念パーティーだ。東大と一橋大。これは理屈抜きでおもしろかった。とくに、一橋大は、校庭に、美術館のときとはまた違う、とてつもないテントを張っておこなった。数えきれないほどの風船を空に舞い上がらせたのも壮観だった。在学生も含めた学生たちの盛り上がりといったら半端なかった。大騒ぎ。OBも来るし、関係者もいっぱいだ。お酒の消費量がすごかった。

 一方の東大は、みなさん、比較的静か。でも、卒業生に向けた祝辞の面々が、さすがというか、「おおーっ!」という顔ぶれでしたよ。会場設営や料理にけっこう工夫を凝らしたことから、企画や打ち合わせに非常に多くの時間を要した。そんなこともあって、とくに思い出深いというか、思い入れの強いイベントになった。わたしが関わったイベントの規模としては、このふたつが最大のものだった。最高に楽しいイベントだった。

 まあ、とにかく、仕事ぜんぶがおもしろくて仕方がなかった。上司に内緒でよく会社に泊まった。企画を練りはじめると、家に帰る時間がもったいなくてしょうがないのだ。

 だが、その一方で、前にも書いたとおり、指示どおりに仕事ができない、ミスをする。それがどうにもなおらない。で、そこから抜け出すには、指示を出す側の立場になればいいという、世にも安易な考えが芽生えはじめたのも、この頃だ。そして、そんな考えを後押しでもするかのように出会ったのが、ナポレオン・ヒルの『成功哲学』だったのである。


第19回(最終回)~会社員に終止符、独り立つ~


 イベント&パーティーの仕事も丸3年になろうとするころだった。ある日、本社近くにある恵比寿の広いパーティー会場の隅っこに、社員全員が集められた。しばらくすると、役員たちといっしょに社長が現れた。

 社長の話は短かった。5か月後に会社が解散されることが告げられたのだ。アメリカ側の会社が撤退を決めたのだという。ここ2か月ほど、日本側だけでつづけるかどうかが検討されていたのだが、継続しないことが決定したとのことだった。総務や経理担当の一部の者を除いて、すべての業務は、3か月後に終了すると。社長の話のあとは、総務の人から、再就職先の斡旋の説明などがあった。

 会社の解散という知らせは、たしかに衝撃ではあったが、正直、残念という気持ちはなかった。話をぼんやり聞きながら、わたしの頭のなかは、高学歴、高収入のエリート外人さんたちのリッチな生活のようすや、数々のパーティーでの思い出、そして何より、この会社に入る前、3年間カフェで働いていたときに知った、芸能界などの華やかな世界のことや、自らの足で立って世のなかで活躍する事業家や、自分の才能ひとつで成功しているさまざまな人たちのことなどが、途切れることなくめぐっていた。そして、そこに覆いかぶさるように、「俺は、指示を出す側の立場になる」という漠然とした思いや、ナポレオン・ヒルの本『成功哲学』のなかに出てきた、成功者たちのさまざまな逸話がよみがえっていたのである。

 楽しすぎる仕事を失うことを、「これでいい」などとは思わなかったが、心のどこかで「何かに後押しされている、いま、やるしかない」という思いがわいていた。そこには、ただただ自信のようなものがあった。根拠などない。ここまで、このコラムを読んできた人はわかると思うが、金森という男は、何しろ〝トンボ〟だから。先のことを不安に思う、などいう発想がどこからも出てこないのだ。トンボのなかのトンボたる所以である。

 会社が終焉に向かう日々のなか、不満や自分の権利ばかりを主張する人、やる気をなくす人、これまでと変わらず黙々と業務をこなす人、やたら飲み会を開きたがる人、そのほかいろいろ、「こういうときに人間性って出るなあ~」などと横目で眺めつつ、わたしは、残りの3か月を目いっぱい満喫した。会社の解散を知らされて、セントラルキッチンの調理師やパティシエの数人が早々に辞めていった。その穴を埋めるために、わたしがよく手伝いに駆り出された。洗い物をしたり、簡単な調理作業だ。なにせ、わたしは〝雑用係〟だからね。しかも、それを喜んでやるわけだからね。会社のなかの〝便利屋〟である。でも、だからこそ、ほかの人より、いろんな経験ができたのだ。そして、このときにパティシエの仕事を手伝ったことが、のちに、たいへん、たいへん、役に立ったのである。

 ということで、19回にわたって、目覚め前の若い時代の「トンボのメガネ」から見えていた景色は、おおかたお伝えした。まあ、「青春編」といったところだ。お話しできることはまだまだたくさんあるが、いったんこのあたりで終わりにしようと思う。

 一応、その後をごく簡単に話しておくと、会社解散後、表参道のシェアオフィスで小さな事業をスタートさせ、ただただ闇雲に走りまわるなか、30代半ばに妻と出会い、一冊目の本に書いたような精神世界に関係するあれこれおもしろいことを経験しながら、40代になって、ちょっとしたヒット商品を生みだしたことから、雑誌や新聞はもとより、たくさんのテレビに出演したかと思えば、6年間うつに苦しむという、精神面でも、健康面でも、金銭面でも、山あり谷あり(山が1に対して谷が10くらい)の日々を送ったのである。そして、目覚め後は、トンボをはるかに超えた〝太平楽〟な生き方をしているわけだ。


一応の「完」