ノンデュアリティかなもり幼稚園

バタ足ノンデュアリティ


\ It'll be OK! /

〔 幼稚園の授業がはじめての方へ 〕

 現在、かなもり幼稚園には、〔 定番の授業 〕五つと、〔 不定期開催の特別授業 〕二つ、計七つの授業があります。

☆定番の授業☆

 定番の授業には、一つのメール授業(メールde実践講座)と、四つのウェブ授業(ひよこ組・“バタ足4”掘り下げ講座・金森講義室・目覚めのクラス)があります。

 それぞれの授業の詳細につきましては、各ページでご確認いただくとして、このページでは、それぞれの授業が、どんな特長を持っているのかを、簡潔に、わかりやすくまとめてあります。

 授業選びの際の参考にしていただけたらと思います。ただ、授業選びは、みなさん、それぞれの「体」が背負ってきた「特質」というものがありますので、一概には言い切れない部分があります。人によって、「合う・合わない」があります。

 実際、かなもり幼稚園の授業がはじめてで、いきなり、『目覚めのクラス』を楽しみながら、一歩一歩すすんでいる園児さんもいます。

 また、「実践みたいなものは、イヤ! 私はひたすら話を聞きたいのです!」という園児さんもいます。それぞれの自由です。

 下記の説明は、あくまでも「参考」にとどめ、あまりむずかしく考えずに、試しにいろいろ受けてみて、自分に合う授業を見つけていってほしいと思います。

🐻園長の音声による実践授業 月曜日と木曜日メール配信

 「事象から学ぶ」「事象に戻る」というバタ足のエッセンスを凝縮した、〝確実に〟事実に近づいていくための授業です。

 もし、ゼロからのスタートだったり、固定観念をゆるめながら、確実にステップアップしていきたいと思うなら、幼稚園がまずはじめにおすすめする授業は、なんといっても『メールde実践講座』です。バタ足の基本的、かつ、重要なことが、ほぼ網羅されています。

 ひたすらくり返し聞き込んで、できれば、全11講座をおぼえてしまうほどに聞き込めたら、最高です(^.^)

 また、学びのなかで、行き詰まったり、迷いが出てきたら、いつでも、この88個のファイルに戻ることができます。「迷ったら実践ファイルに戻る、迷ったら実践ファイルに戻る」ということを繰り返すことの〝恵み〟を感じてほしいと思います。

 88個の音声ファイルが、あなたが迷ったときに、「原点に帰る」「事実にもどる」ための〝強力な助っ人〟になるでしょう。

🐤未就園児さん向けZoom授業 毎週土曜日15:30~15:45

 実践講座と平行して受けてほしい授業が、『ひよこ組』です。

 バタ足のエッセンスを、基礎から学ぶ授業です。

 実践講座で言われていることが、理屈の上でも理解できるようになっていきます。

 内容的には、実践に通じる基本的なことや、以前、ユーチューブでお届けしていたメッセージの解説、よく出てくる言葉の解説、それから、日常ですぐに使えるような、ちょっとしたアイデアやメッセージなどもお伝えしていきます。

 基礎的なことを、理屈の上でしっかり学んで、日々の実践を、より実りあるものにするための授業でもあります。着実にステップしていくための第一歩です。

😽『ぜんぶが夢で、ぜんぶがホント』を教科書にしてすすめるZoom授業 毎週水曜日16:00~16:30

  バタ足の全体を、広範囲に、カバーしているクラスで、『金森講義室』と『目覚めのクラス』両方の要素をあわせ持った、全体にバランスの取れたクラスといえるでしょう。

 本では語っていないことが、たくさん出てきますが、基本的に、本に沿ってすすめられていくので、予習や復習がしやすいという利点があります。

 400ページの内容を、だいたい、1年2か月ほどかけて掘り下げていきます。授業の進行状況は、講義予告ページで確認できます。

 本のはじめから受講しないとわからない、ということはありません。どのタイミングからでもどうぞ。

🧸年中さんのためのZoom授業 毎週土曜日16:00~16:30

 私たちの「体」を含め、あらゆる存在が、個体の物質などではなく、知覚や行動や経験によって世界を形成する現象であるという〝真の洞察力〟を育む授業です。むずかしく聞こえる部分もあるかと思いますが、じつは、とても単純なことをお話ししています。〝当たり前のこと〟です。そして、〝あなた自身の話〟です。

 内容的には、真理の側からのアプローチというよりも、どちらかというと、現象(=知覚)の側からのアプローチが多くなります。それによって、〝徹底して〟事実はこうなってるんだよ、ということを〝妥協なく〟お伝えしながら、〈世界〉とは何なのか、〈自分〉とは何なのか、を見届けられるようになるための土台をつくっていきます。ちゃんと楽になっていくための、とても大切な授業です。

 一応、お伝えしておくと、この講義のなかでは、いわゆる精神世界の話にありがちな、「救ってくれる存在」だとか「素晴らしいあなた」だとか「すべてはうまくいく」だとか「世界は良き方向に向かっている」といった〝幻想〟は、捨ててもらわなければなりません

 『金森講義室』は、たとえ〝目覚め〟のようなものが起きなかったとしても、知恵をつけていくことで、〝確実に楽になっていくための講義〟と位置づけています。 幼稚園では、知恵でたどりつける場所のことを「山の九合目」や「真理の淵」と表現していて、ノンデュアリティにありがちな勘違いを取り除きなから、そこに一歩一歩近づいていくための授業と、とらえていただければいいかと思います。

 もし「一つだけ受講するならどれ?」と尋ねられたら、実践講座の受講がまだでしたら、言うまでもなく、まずは実践講座ですが、それ以外で一つというのであれば、この講義をおすすめします。

🦉年長さんのためのZoom授業 毎週日曜日16:00~16:30

 対象の側にあるものは、本来はそれも〈自己〉であり、そこに、自己も対象も消えた〈非二元性〉が現れる。さらに、それさえも消失したところに、すべてを無条件・無制約に現出させる〈絶対性〉が浮かび上がる。これが、人間精神の究極の形態であり、それこそが〝真の自由〟なのである、ということを学んでいく授業です。

『金森講義室』が、現象世界を切り口に、ノンデュアリティを〝現実的に〟語るのに対して、この『目覚めのクラス』では、どちらかというと、真理・悟り・非二元性を、〝抽象的〟〝ふわっ〟と語るような一面があります。

 このことが、場合によっては、ある種の「心地よさ」のようなものをもたらすことがあります。とくに、非二元性の最終ゴールともいえる〈絶対性〉について語られるときには、先の『金森講義室』の説明のなかにあった「精神世界的な幻想は捨ててね」ということも、「表面的なことです、お好きにどうぞ」と語られたりすることもあります。

 また、〈絶対性〉のなかでは、「全肯定」的なことや、「愛や慈悲」といったことが出てくることもあるわけですが、このような話題は、耳に響きもよく、うっかりすると、スピリチュアリティの話にありがちな「表面的な心地よさ」だけに流されてしまいます。もちろん、このようなことを純粋に楽しむことを否定はしません。それはそれで楽しいことです。けれども、多くのみなさんは、個の存在が前提されたままで、それをとらえてしまいます。そこに大きな勘違いが起きがちです。つまり、「全肯定」でいうなら、個人の活動に対して「そのままでいい」というようなとらえ方をしてしまったり、「愛や慈悲」でいうなら、個人としての人間の〝感情の問題〟のようにとらえてしまう、ということです。これは、違います。

 そういったことも含めて、〝真の自由〟というものが、どういうものなのかを学んでいってほしいと思っています。

 こういったありがちな勘違いを避けるために、もし可能であるなら、『金森講義室』や『バタ足4掘り下げ講座』を〝同時進行〟で受講することも検討してみてください。

 金森講義室と目覚めのクラスの違いを、ものの「ある・なし」で例えると、こんなふうに言うことができます。

 誰もが目の前にあるコーヒーカップを実在するものだと思っています。だから、自分がいなくなってもカップはある、と信じています(事実は違います)。

 では、それが「ある」というのは、どういうことなのかを知ること、つまり、「ある」をきちんと知ることから、ほんとうの意味での「ない」を知ること、それが金森講義室です。

 一方、目覚めのクラスは、はじめから「ない」を前提にしながら、「ないながら、ある」「ありながら、ない」、さらには、「すべがあっていい」というところまで語っていく、そんなニュアンスでとらえていただければいいかと思います。この「はじめから『ない』と断じる」ところが、ちょっと危うい(勘違いが起こりやすい)ので、このあたりが少し注意が必要だよ、ということです。

☆不定期開催の特別授業☆

 不定期で開催する特別授業は、3時間集中講座『ものの現れ、私、他者』と、120分集中講座『時間の経過と因果性』の二つがあります。

 不定期開催ですので、開催が決まり次第、日めくりカレンダー『一日一バタ足』内の【園からのお知らせ】にてお知らせしています。

 ノンデュアリティについて、ある程度は知っているという方を対象にした授業になります。

 「ものの現れ」の本質「私」という存在の本質「他者」という存在の本質を、理論的に解き明かしながら、ノンデュアリティでよく言われる、「世界はない」「私はいない」「誰もいない」という言葉の真意に迫ります。

 ものが現れる構造的なしくみ、私という存在の驚くべきはたらき、非二元性のなかで、なぜ、他者への慈しみが生まれるのか、そういったことの明確な答えがこの講座のなかで明かされます。

 社会性を見失うことなく、誤りなく、ノンデュアリティへの理解を深める大きな足がかりになるはずです。

 こちらも、『ものの現れ、私、他者』講座と同様、ノンデュアリティについて、ある程度は知っているという方を対象にした授業になります。理屈っぽ~い話も随所に出てきます。

 ノンデュアリティを知ろうというときに、誰もが、必ず、関心を持つ「因果はない」または「因果のあるなし」について、知的理解を深めることを目的にした授業で、「時間の経過は錯覚である」という切り口から、事実の上では、「因果」は成立し得ないのだ、ということを、ていねいに解説していきます。

「ものごとに関係性はない」「つながりはない」「因果はない」ということに、興味を持っていたり、どうしてもそこに引っかかってしまう、という方は、ぜひ受講してみてほしいと思っています。

 消えることのない〈いま〉への理解や、〈同時性〉というものへの知的理解が、〈因果〉というものに対するあなたの認識を変えることにつながると思います。

私の思い

~ 山火事のあとの地面に顔を出した〝小さな芽〟~


 けっこうなボリュームがあります。本でいうと、14~15ページほどになります。お時間のあるときにでも、ゆっくり読んでみてください。


 私が、みなさんに、実践講座やウェブ授業を通じて、いろいろな話をするのは、私が知り得た幸福、または、幸福の種とも言えるものを、少しでもみなさんに、おすそ分けをしたいからです。

 お話しする内容の〝最終地点〟だけを見ると、とてもふつうのことで、なんということのない日常生活の話とも受け取れます。

 ですが、この「なんということのない」実物を、ほんとうに知るには、一度、ふつうではなかなか理解のおよばないことを、誤りなく、自分の目で、しっかり見届ける必要があるわけです。

 いま、多くのみなさんから見えているのは、「なんということの〝ある〟」日常生活です。ほんとうの「なんということのない」日常生活は、なんということがないからこそ、すべてがおかしく、すべてが愛おしいのです。

 それをみなさんに知ってほしい。そのために、あなたに元気がなければ、励ましもしますし、やっていることがうまくいかないのなら、あれをやってみなさい、これをやってみなさいと、お尻を叩くこともあります。

 いつもお話しすることですが、私が知り得た幸福は、現実世界から離れた、夢の世界のようなものでもなければ、社会から逸脱するようなことでもありません。社会のなかで、きちんと、おとなとしての責任を果たしながら、一歩一歩、自分の足で歩いていく、それ自体のなかに、ほんとうの幸福があるんだよ、とお伝えしています。

 精神世界のようなものと、現実世界を二つにわけて、他者や物質や事象を否定するように〝内側〟にこもって、自己満足に入っていくようなものではありません。

 私が知り得た幸福のおおもとのことを、私は、「根源」という言葉で表現しています。はじめの頃は、「全体」という言葉を使っていましたが、たくさんのみなさんと会ってお話ししたり、ウェブ講義でお話ししていくなかで、どこか〝広がり〟のようなものを感じさせる「全体」という表現よりも、すべてのおおもと、というニュアンスを持たせた方が、伝えたいことが伝わりやすいと感じて、「根源」という表現に変えていきました。

 言葉の表現としては、「全体」でも、「静寂」でも、「存在」でも、「真我」でも、「在る」でも、「いま」でも、「いのち」でも、なんでもいいといえば、なんでもいいのですが、私がお伝えしたいことの一つに、「根源」は、私たちが五感を通じて触れられる、あらゆるものとしてその姿を現してくる、ということがあります。その現れによってのみ、私たちは、「根源」に触れた〝自覚〟を得ることができます。

 私は、その「根源」の、人間の考えが到底およばない、想像をはるかに超えた活動を、たまたま目の当たりにして、それを知り得ました。「おれはこんな力に逆らおうとしてたのか」と呆れるしかありませんでした。抗って、もがいていた自分を笑うしかありませんでした。「恐れ入りました」という以外にない、とんでもない活動です。とてつもなく大きな力です。

 と同時に、その大きな力から落ちこぼれてしまうことなどないという、大きな安心へと〝落ちて〟いきました。「落ちる」という表現が、まさにピッタリです。

 長いあいだ、このことを知らずに、虚しい思いに入り込んで、厚い雲に覆われ、晴れることのない空のように鈍く、重たい気持ちで過ごしてきました。自分ですべてを決め、自分で解決し、その責任も自分が負う、だから、たくさんの知恵をつけなければいけない、賢くなければいけない、運も実力のうちなのだと、そんなことをずっとやってきました。

 30代のはじめまでは、そんなこととは、まったく縁のない、極楽トンボのように生きていたのですが、30代のはじめに、成功というものを知り、それに立ち向かいはじめてからは、「自分にはできる」「自分にはそれだけの価値がある」と堅く信じて、それがどれだけ愚かなことであるかを知らないまま、苦労と苦悩をたっぷり背中に背負って、突きすすんでいました。

 もし、「根源」が個人という存在を知っており、さらに意志や考えというものを持っていたなら、私を見て、「バカなやつだ」と笑っていたことでしょう。実際には、そんなことはありませんけどね。

 ただただ活動だけがあります。あらゆるものを現す活動です。人間の知力を超えた活動です。そのなかで、「根源」は、あらゆる〈悪〉も現します。この〈悪〉というのは、あくまでも、人間の視点の上に現れる〈悪〉のことです。

 人間から見た不正、みにくい欲望、悪意、うらみ、ねたみ、争い、といったものも、なんの躊躇もなく現してきます。躊躇などあるはずもありません。「根源」には、いい悪いがないのですから。

 そして、「根源」は、私たちに手を差し伸べようともしません。個人の存在を知らないのですから、当然のことです。ここに反感を抱く人も多くいます。

 けれども、私ははっきり言います。私たち人間の視点から見た〈悪〉に映ることも、拒否したり、排除したりすることのない絶対性その制約・制限のいっさいない、計り知れない大きさこそが、とてつもないやさしさなんです。

 すべての現れが、それしかあり得ないものとして現れてきます。それに対して、私たちには、いっさいの選択権も、それを変更する力も与えられていません。これを聞いて自由がないように思う人もいるでしょう。こんな話を聞かされて、「根源か何か知らんが、自分はそんなものの操り人形なんかじゃない、ロボットでもない、奴隷でもない、俺(私)は自分の意志で生きてるんだ」と思う人も多いと思います。そう思ってるのも、根源の表現なんですけどね(笑)。

 たしかなことは、人間が手をはさむ隙など、どこを探してもありはしないということです。無駄な抵抗をやめて、すべてを投げ打って、ただあるべきように運ばれていくようすに、喜んで乗っかってみることです。そうすれば、自由がない、などというのは、まったく正反対だということがわかります。

 私が、この自由を、そして、それまで知らなかった幸福を、ほんとうに感じていなかったら、本を書くことなんてなかったでしょうし、たくさんのみなさんに向かって、いろいろな話をしてみたり、みなさんの理解がすすんだり、気づきの手助けになるように、いろいろな遊びを考えたり、手立てを考えたりすることも起きたはずがありません。

「根源」は、誰にでも同じように〝恵み〟を降り注いでいます。「根源」は何も判断しません。何も裁きません。誰も裁きません。いかなる現れも否定しません。これが正しいとか、これは正しくない、などとも言いません。そして、根源は、いっさいの報酬、見返りを要求しません

 この「根源」の表現を深く知ることによって、私たちには、ごく自然に、慈しみや寛容といったものが現れるようになっていきます。必要であれば、忍耐や努力だって現れます。やがて、慈しみや寛容といったものが根を張っていきます。これが「根源」に触れることの大きな〝恵み〟です。

 世界中の誰もが迷っています。なぜかといえば、〝正しい何か〟があると思っているからです。〝正しいもの〟を誰もが探しています。それが迷いです。

 私たちが見ている世界のなかに、〝正しいこと〟というものは存在しません。ひっきょう、誰かが「正しい」と主張する意見だけしか存在しません。そして、その正しさを証明することは、誰にもできません。

 理由は簡単です。もともと、正しい、正しくない、というそれ自体がないからです。それ自体がないのに証明できるはずがありません。

 では、私たちは何を指針に、生きていけばいいのでしょうか?

 事実の一面から言えば、ただ生きることが指針だと言えます。ただ生きること、これほど強力な指針はありません。けれども、それには、生きることに意義や意味などをくっつける必要などないほど、生きることそれ自体が、とんでもない奇跡なのだということを、ほんとうに知る必要があります。

 でも、まだ、そこまで至らない人は、「生きること自体が指針だよ」などといくら言われても、それだけで、すっきり収まる、ということにはなりません。どうにも落ち着かない、座りが悪いままでいることになります。

 そうではない、もっとはっきりした何かを支えにしたい、という思いがあるはずです。ここに出てくるのが先ほどちらっと出てきた。慈しみや寛容です。もちろん、これだけではありませんし、二元的視点では、ほんとうの慈しみや寛容というものが、ズレてしまうのは承知の上です。慈しみや寛容には、三つの段階があり、「わたしとあなた」が存在する、二元的視点から現れるものは、一つめの段階のものにすぎません。けれども、いますぐ、その気になりさえすれば、本来、誰でもが持っている、この慈しみや寛容というものが、どこかで支えになってくれるはずです。

 ここでみなさんに、知っておいてほしいのは、慈しみや寛容というのは、「与えること」なんだよ、ということです。「受け取る」のではなく、「与える」ことにその本質があります。これが、人が生きていく上での柱になってくると、あらゆることが変わってきます。それは、そうですよね。なんとなくイメージができると思います。

 なんだか、道徳とか倫理の授業とか、お説教みたいになってきましたけど、ここで話しているのは、そういう、思考の上のことではなくて、直覚的・直接的なものの話です。この直覚的・直接的というのは、頭で考える前に、それが勝手に生まれてきてしまうこと、いつのまにか、それがあること、です。そして、それが勝手に表に出てきてしまうことです。それが正しい行為なのだとか、がんばっておこなうとか、世の中のためにそうすべきである、といった類いのものではありません。みなさんのなかにもともとあるはずの〈キャンドルの火〉です。消えることのない〈キャンドルの火〉です。

 ただし、いまも言いましたが、「それがいいことなのだ」とか「世界を変えるのだ」とか「よき社会に変えるのだ」といった、そんなことではまったくありません。ましてや、「あの人たちも私と同じように考えるべきだ、同じように行動すべきだ、あなたもそうしなさい」というのは、これまたまったく違います。同意、賛同、共鳴、共感、それを〝自分たちが思う〟正しい方向(と思い込んでいること)に導こうとするのは、ある意味、とても危険な思想です。「与える(すでに与えてしいまっている)」ことのほんとうの意味を知る必要があります。

 一人一人が、それを、正しい正しくないということなしに、慈しみと寛容のなかで、ただおこなっていく、それだけです。道徳とか倫理や、価値観といったものを超えたおこないです。ノンデュアリティにありがちな〝なんにもない〟的な発想からくる勘違いがよくあります。この話でいえば、道徳とか倫理といったものを〝なきもの〟のようにとらえるようなことです。それはまったく違います。「ない」のではなく、それを自然に超えてしまうだけです。ぜんぶ包んでしまうだけです。それが、「根源」によって、個人というものなし対象というものなしに、なされていくんです。おこなう存在おこないが反映される存在おこなわれる内容、そして、それを知っている存在が、すべて同一の存在です。

 私は、かつて、「根源」の力を知らずに生きていました。いまのみなさんのように、知識としては知っているということもありませんでした。あるのは〝経済的な成功〟、まさにこれだけ。そして、苦しんでいました。ものごとが自分の思うように運ばないことに、いつも苛立ち、怒っていました。

 おそらく、いまこの文章を読んでいるたくさんのみなさんのなかで、当時、私が求めていたもの、望んでいたものより大きなものを求めて、アホみたいに苦しんでいる人は、まずいないと思います。そのくらい、馬鹿げた夢を見ていました。しかも、真剣に、です。常識人であれば、「そりゃ、誰が考えたって無理でしょ」と笑ってしまうレベルのものです。

 でも、私は真剣でした。なにしろ、それがかなわないことに苦しみ、二度、夜中に救急病院に運ばれるほど、体をおかしくしていたんですから(笑)。そして、深いうつも経験しました。

 そんな〈私〉が、ある時、突然、死にました。まさに「突然死」です。生き返りましたけど(笑)。

 生き返って、それでも、私は私ですが、出てくる考え、出てくる行動が別のものになっていました。それを、2冊目の本には、こんなふうに書きました。

 私に突然訪れたノンデュアリティは、山火事クラスの大物でした。有無を言わさず、私のあらゆるとらわれをきれいさっぱり焼き払い、私のすべてを変えました。見渡すかぎりの焼け野原。おかげで、ずっと遠くまで見とおせるようになったというわけです。
 私から見える景色は、見事な焼け野原。何も残っていませんでした。正しいと思い込んでいたものも、悪いと思い込んでいたものも、人としてこうあるべきだ、と思い込んでいたものも、目指すべきものも、すべてが焼き払われました。

 でも、すぐに思いました。何もない、何もなくなったのではなくて、大地がある、大地がどこまでも広がっている。火が、すべてを燃やし尽くして、なんにもなくしてしまったのではなくて、火が、もともとあるものを見えるようにしてくれただけなのだ、と。本来、見えるべきものを、見えるようにしてくれただけだ、と。これが、私の体験です。

 本には、こんなふうにも書きました。

 ノンデュアリティのメッセージは、「火」のようなものだと、私はみなさんにお伝えしています。
 火は熱いんです。いくらやさしく燃えても熱いんです。いくらやさしく近づいても熱いんです。じかに触れたらやけどをします。一歩まちがえば、火事にだってなります。
 けれども、正しく使いさえすれば、おいしい料理だってつくれるし、寒い冬を快適にすごすことだってできます。明かりの下でゆったりと夜を楽しむことだってできます。そのはかり知れない恩恵は、私たちの生活すべてにおよびます。すべてを潤わせてくれるんです。

 最後に、

すべてを潤わせてくれるんです。

 とありますね。ほんとうにそうなんです。その力に黙ってしたがっていくと、自然に現れてくるものが慈しみと寛容です。それが、〈恩恵〉であり、〈潤い〉です。

 そのとき、私のなかで、山火事で焼け野原になった、何もない大地から、〝小さな新しい芽〟が顔を出しているのがわかりました。それが、どういう芽かというと、私が知り得たこの感覚、この消えない幸福というものを、世の中にどう伝えていこうか、という〝小さな芽〟です。この焼け野原のこと火そのもののこと大地のとてつもないやさしさ、その素晴らしさをどう伝えていくか。言葉で伝えるのは、そうそう簡単ではない。それを模索することが、私にとっての〝新しい芽〟だったのです。

 それが、いまは、だいぶ育って、一応、木らしい木になり、夏の暑い季節なら、木陰をつくり、いくらかの人を休ませてあげられるような木にまでになりました。

 これから、どんな木になっていくのかはわかりませんが、変わらずにあるのは、「私が知り得た幸福、または、幸福の種とも言えるものを、多くのみなさんにおすそ分けをする」ということです。「伝えていく」ということです。

 この「伝える」ことにおいて、私は、とくに楽しい話をするわけでもありませんし、みなさんが、わくわくするような話をするわけでもありません。「あなたは素晴らしい存在なんですよ」などということは、天地がひっくり返っても言いません(笑)。あなたが、その場で〝ほどけて〟しまうような話をしようとも思っていません。というか、そもそも、そんなことはできません。そうではなくて、ただ伝えるべきことを伝えるだけです。

 そんな私の話を、半年、一年と聞きつづけているうちに、いまよりほんの少しでも、たとえそれが、短い時間しかつづかなかったとしても、誰かや何かに対して「やさしい気持ち」を持てるようになってもらえたら、そんなふうに思っています。

 それとね、これは、〝おまけ〟のようなものですけど、誰かと話すとき、自分が以前よりも決定的に違っている、あることに気づくと思います。それは、自分がなんだか〝おとな〟になっていると感じることです。

 最後に一つお伝えします。大事なのは、話を理解すること、わかることよりも、「真理の話に〝触れる機会〟を多くもつことだよ」ということです。

 ということで、いろいろお話ししてきましたが、世の中には、ノンデュアリティの基本的なことから、むずかしいことまで、外国の人、日本の人、さまざまな人が語っている本がありますし、ユーチューブ動画なども、あふれんばかりにあります。そういう本を読んだり、いろいろな動画を観て、もっと違う話が聞いてみたいと思ったら、幼稚園に遊びにきてみてください。

ということで、

乁( ˙ω˙ 乁) ミンナ オイデオイデ!

応援してるよ!

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